本日11月23日付の朝日新聞の社説で外国人選挙権について取り上げているので、今日はこの件について書いてみたい。
自分の正直な気持ちとしては、外国籍の方々には、気持ちよく日本国籍を取得してもらってから選挙権を行使してもらいたい。が、そうは言っても、日本という国が果たして外国籍の人々にとって気持ちよく日本国籍を取得したいと思えるような国かどうか、疑問なしとはしない(そういう国になるよう日本人は務めるべきであろう)。従って、現在の吾輩の気持ちはかなりアンビヴァレンツである。
日本のマイノリティの中で多数を占める在日韓国・朝鮮人について言えば、おそらく大部分の人たちは良い人たちなんだとは思う。しかしながら例えば在日韓国人の組織である民団は、「大韓民国の憲法と法律を遵守します」と主張しており、日本海呼称問題においても「東海」併記を求めている。こういう強烈なナショナリズムを有する人々――しかも彼らの母国の韓国もまた民族主義が強烈である――に参政権を与えたら、日本の地方行政が韓国政府によって遠隔操作されはしまいかと正直不安になる。
吾輩が残念でならないのは、なぜ在日韓国人たちは日本と韓国の間に立って両国の架け橋となるような立場を取らないのかということである。例えば、日本海呼称問題について言うなら、日本は太平洋側の海を東海と呼んできた。従って日本海を東海と改称すれば、西も東も東海となって混乱してしまう。こういう事情を在日韓国人なら理解できるはずである。なぜ彼らは「“東海”ではなく別な呼称を考え直すべきだ」と韓国側を説得しようとしないのか。もし彼らがそういう中立的な立場を取ってくれれば、吾輩の不安も消えていくだろうに。
もうひとつ不安に感じていることは、「多文化共生社会」をどう解釈するかである。「多文化共生社会」になるのはいい。だが、「多文化共生社会」の名の下に、マイノリティの文化は尊重されるべきだがマジョリティの文化はなるべく消していこう、となるのが怖い。例えば、何かの本か雑誌で姜尚中教授が「これから日本は共生社会とならざるを得ないのに、日本に天皇制のようなものがあっていいのか」というような発言をしていた。日本という国を価値中立、文化的白紙状態にして、そこにマイノリティがそれぞれの文化色を塗りつける、それが「多文化共生社会」なのだとしたら、吾輩としては抵抗せざるを得ない。日本が今日の日本になったのは、長い歴史があってのことである。マジョリティの文化・伝統もまた尊重してもらいたいのである。
以上のようなことを書けば、「結局おまえは人種主義者だ」と非難されるかもしれない。しかし自分ではそうは思っていない。実際吾輩は評論家の竹田青嗣氏(在日二世)のファンである。最近出版された彼の『中学生からの哲学「超」入門』も買った。その書には彼が在日ゆえ就職が困難であったことにも少し触れられていたが(そのことで日本を恨みがましく非難するようなことはしていない)、こういう話を聞けば吾輩だって、国籍による差別を撤廃させなければならないと思うのである。だから初めにアンビヴァレンツだと書いた。
おそらく問題は、移民受入国が第一圏域の国(近代化を終えた国、従ってナショナリズムが枯れた国)で、一方、移民たちの母国が第二圏域の国(近代化途上の国、従ってナショナリズムが強い)というズレにあるのだと思う。
願わくば、マイノリティがあまりにナショナリスティックにならんことを。それが日本人をドン引きさせてしまうからである。
自分の正直な気持ちとしては、外国籍の方々には、気持ちよく日本国籍を取得してもらってから選挙権を行使してもらいたい。が、そうは言っても、日本という国が果たして外国籍の人々にとって気持ちよく日本国籍を取得したいと思えるような国かどうか、疑問なしとはしない(そういう国になるよう日本人は務めるべきであろう)。従って、現在の吾輩の気持ちはかなりアンビヴァレンツである。
日本のマイノリティの中で多数を占める在日韓国・朝鮮人について言えば、おそらく大部分の人たちは良い人たちなんだとは思う。しかしながら例えば在日韓国人の組織である民団は、「大韓民国の憲法と法律を遵守します」と主張しており、日本海呼称問題においても「東海」併記を求めている。こういう強烈なナショナリズムを有する人々――しかも彼らの母国の韓国もまた民族主義が強烈である――に参政権を与えたら、日本の地方行政が韓国政府によって遠隔操作されはしまいかと正直不安になる。
吾輩が残念でならないのは、なぜ在日韓国人たちは日本と韓国の間に立って両国の架け橋となるような立場を取らないのかということである。例えば、日本海呼称問題について言うなら、日本は太平洋側の海を東海と呼んできた。従って日本海を東海と改称すれば、西も東も東海となって混乱してしまう。こういう事情を在日韓国人なら理解できるはずである。なぜ彼らは「“東海”ではなく別な呼称を考え直すべきだ」と韓国側を説得しようとしないのか。もし彼らがそういう中立的な立場を取ってくれれば、吾輩の不安も消えていくだろうに。
もうひとつ不安に感じていることは、「多文化共生社会」をどう解釈するかである。「多文化共生社会」になるのはいい。だが、「多文化共生社会」の名の下に、マイノリティの文化は尊重されるべきだがマジョリティの文化はなるべく消していこう、となるのが怖い。例えば、何かの本か雑誌で姜尚中教授が「これから日本は共生社会とならざるを得ないのに、日本に天皇制のようなものがあっていいのか」というような発言をしていた。日本という国を価値中立、文化的白紙状態にして、そこにマイノリティがそれぞれの文化色を塗りつける、それが「多文化共生社会」なのだとしたら、吾輩としては抵抗せざるを得ない。日本が今日の日本になったのは、長い歴史があってのことである。マジョリティの文化・伝統もまた尊重してもらいたいのである。
以上のようなことを書けば、「結局おまえは人種主義者だ」と非難されるかもしれない。しかし自分ではそうは思っていない。実際吾輩は評論家の竹田青嗣氏(在日二世)のファンである。最近出版された彼の『中学生からの哲学「超」入門』も買った。その書には彼が在日ゆえ就職が困難であったことにも少し触れられていたが(そのことで日本を恨みがましく非難するようなことはしていない)、こういう話を聞けば吾輩だって、国籍による差別を撤廃させなければならないと思うのである。だから初めにアンビヴァレンツだと書いた。
おそらく問題は、移民受入国が第一圏域の国(近代化を終えた国、従ってナショナリズムが枯れた国)で、一方、移民たちの母国が第二圏域の国(近代化途上の国、従ってナショナリズムが強い)というズレにあるのだと思う。
願わくば、マイノリティがあまりにナショナリスティックにならんことを。それが日本人をドン引きさせてしまうからである。
オバマ大統領が来日して演説したそうでゴイスね。まだ演説の中味を読んでないのでコメントできないけど、もし読んで何か思うところがあったら、後日ブログに感想をアップしようと思うでゴイス。
今日は、今月の1日〜3日にかけて放送されたNHKスペシャル『証言ドキュメント 永田町・権力の興亡』について、(昨日、録画しておいたものをようやく見終わったので)つらつら書いてみるでゴイス。
番組はなかなかおもしろかった。まあ、1993年から2009年までの16年間を180分の番組で追いかけたのだから、どうしても表面的にならざるを得なかったし、意外な事実もなかったけれども(90年代の政権交代とその崩壊過程については当時から報道されていた通りの内容で新鮮味は感じなかった)、流れとしてはよくまとまっていたんじゃないかと思う。
そもそも吾輩がこの番組を見てみようと思ったのは、もともと細川政権や新進党、民主党は新自由主義的立場であったはずなのに、先の参院選あたりから「国民が第一」とかなんとか言い出して、そこんとこ、どう説明するのよ、と思ったからである。
この点に関して番組では、小沢一郎氏の口から証言はなかったけれども、ゲストの山口二郎教授の発言が、まさに吾輩の思うところを言い当ててくれた。すなわち、「小沢氏の政策転換は、単に小泉自民党の逆張りに過ぎないのか、それとも理念を転換したということなのか、これからそれが問われるんだ」と。
もともと新進党、民主党が改革を訴えていた。そのお株を小泉氏が奪って改革を主張し国民の高い支持を得た。ところが小泉氏の退陣後、民主党が分配重視の政策に転換し、大勝した。50年後の人々は、この政治ドラマの展開に首をかしげるのではなかろうか。国民は何考えてたんだと。
今、小泉改革が日本社会を破壊した元凶のような言われ方をしているけれども、それでもあのとき小泉改革をやっておく必要はあったと思う。それは思想的な意味において。
というのは、小泉氏以前は新自由主義批判は、イコール既得権益擁護とみなされていたからで、そのため新自由主義批判は正当に評価されなかった。そもそも小泉氏が浮動層からあれだけの支持を得たのは、国民のほうに、既得権を持つ者に対する妬み、不公平感があったからであろう。従って、一度は改革をやって、「新自由主義批判=既得権益擁護」ではない、ということをはっきりさせる必要があった。改革を経てようやく、政治的な対立軸がはっきりしたのである。
さて、浮動層の恨みの心をうまく掴んだのが小泉氏なら、既得権を破壊された者たちの恨みを巧みに糾合したのが小沢氏である。小沢氏がここでまた経世会ばりの利権政治を復活させれば、再び浮動層の恨みは募るだろう。結局、与党としては、いかに国民の恨みを買わない政治をするかが重要であり、野党としては、国民のどのへんに恨みが渦巻いているかを素早く察知して、それを動員力に変えられるかが政権奪取のポイントとなろう。
要するに、番組を見て思ったのは、政治とは、“恨み”の吹き溜まりみたいな場なんだなぁ〜、ということである。戦国時代の武将たちも、“損得”と“恨み”で動いたんだろうねぇ。
今日は、今月の1日〜3日にかけて放送されたNHKスペシャル『証言ドキュメント 永田町・権力の興亡』について、(昨日、録画しておいたものをようやく見終わったので)つらつら書いてみるでゴイス。
番組はなかなかおもしろかった。まあ、1993年から2009年までの16年間を180分の番組で追いかけたのだから、どうしても表面的にならざるを得なかったし、意外な事実もなかったけれども(90年代の政権交代とその崩壊過程については当時から報道されていた通りの内容で新鮮味は感じなかった)、流れとしてはよくまとまっていたんじゃないかと思う。
そもそも吾輩がこの番組を見てみようと思ったのは、もともと細川政権や新進党、民主党は新自由主義的立場であったはずなのに、先の参院選あたりから「国民が第一」とかなんとか言い出して、そこんとこ、どう説明するのよ、と思ったからである。
この点に関して番組では、小沢一郎氏の口から証言はなかったけれども、ゲストの山口二郎教授の発言が、まさに吾輩の思うところを言い当ててくれた。すなわち、「小沢氏の政策転換は、単に小泉自民党の逆張りに過ぎないのか、それとも理念を転換したということなのか、これからそれが問われるんだ」と。
もともと新進党、民主党が改革を訴えていた。そのお株を小泉氏が奪って改革を主張し国民の高い支持を得た。ところが小泉氏の退陣後、民主党が分配重視の政策に転換し、大勝した。50年後の人々は、この政治ドラマの展開に首をかしげるのではなかろうか。国民は何考えてたんだと。
今、小泉改革が日本社会を破壊した元凶のような言われ方をしているけれども、それでもあのとき小泉改革をやっておく必要はあったと思う。それは思想的な意味において。
というのは、小泉氏以前は新自由主義批判は、イコール既得権益擁護とみなされていたからで、そのため新自由主義批判は正当に評価されなかった。そもそも小泉氏が浮動層からあれだけの支持を得たのは、国民のほうに、既得権を持つ者に対する妬み、不公平感があったからであろう。従って、一度は改革をやって、「新自由主義批判=既得権益擁護」ではない、ということをはっきりさせる必要があった。改革を経てようやく、政治的な対立軸がはっきりしたのである。
さて、浮動層の恨みの心をうまく掴んだのが小泉氏なら、既得権を破壊された者たちの恨みを巧みに糾合したのが小沢氏である。小沢氏がここでまた経世会ばりの利権政治を復活させれば、再び浮動層の恨みは募るだろう。結局、与党としては、いかに国民の恨みを買わない政治をするかが重要であり、野党としては、国民のどのへんに恨みが渦巻いているかを素早く察知して、それを動員力に変えられるかが政権奪取のポイントとなろう。
要するに、番組を見て思ったのは、政治とは、“恨み”の吹き溜まりみたいな場なんだなぁ〜、ということである。戦国時代の武将たちも、“損得”と“恨み”で動いたんだろうねぇ。
今年もハクキンカイロの登場でゴイス。冷え性のせいで指先が冷たくてかなわんのでゴイス。
さて、いまさらなのであるが、2、3ヶ月くらい前に話題になった鳩山論文を読んでみた。反米宣言などと揶揄されたくらいだからどんなにスゴイものなんだろうかと期待(?)して読んでみたけど、別に大したことないではないか。取り立てて目新しいことを言ってるわけでもなく、社会学専攻の学生が書いたレポートのようなものだ(吾輩も偉そうによく言うね)。むしろ、日本の文脈で言えばさほど過激とも思えないこの論文が、アメリカの文脈に置かれたとき、あれだけの反発を生むものなんだなぁ〜、とアメリカ人の“社会主義嫌い”の強さを思った。
論文の内容はおおむね頷ける。過剰な自由主義に向かうことなく、かといって抑圧の共同体に陥ることもないように、ヤジロベエよろしく「友愛精神」で釣合いを取っていこう、ということなんだと思う。ただ、論文で明瞭になっていないのは、その「友愛社会」をどうやって実現するのかということである。「友愛」は、言ってみれば道徳みたいなものである。その道徳に頼って「友愛社会」を実現しようというのは、宗教家の唱えるところではあっても政治家の唱えるところではない。現代社会が抱える問題を道徳的に解決しようするのではなく、あくまで制度的に(あるいは社会学的にというべきか)解決しなければならない。それは国民に道徳を強制することができないからである。同様に、他国の国民に「友愛精神」を期待することもできない。保守派、というか現実主義者たちが憂慮するのもこの点であろう。仮に尖閣諸島を中国に譲り、竹島を韓国に譲ったとしても、それで中韓と仲良くなれる保証などないからである。
それでも先進国は譲らなければならない、と鳩山首相は考えているのかもしれない。そしてそれは理論的には間違っていないようにもみえる。例えばイスラム原理主義者たちのテロリズムはどうすれば収まるかを考えてみよう。アメリカは、「民主化した国は戦争をしない」というデモクラティック・ピース論に基づいて、イラクやアフガニスタンを民主化しようとする。しかしそれでアメリカに対するテロはなくなるだろうか。たぶん、なくならない。なぜなら、アメリカを頂点とする覇権体制が続く限り、不平等は構造化される。それでは不平等を強いられる国の人々の恨みが消えることはないからである。この構造(恨み)を解消するためには、既得権を持つ国々(先進国)が率先して既得権を放棄しなければならないだろう。鳩山首相が主張した自国に厳しすぎるとも思える「温室効果ガス25%削減」や、デモクラティック・ピース論に対するアンチテーゼをうかがわせる「アフガンへの自衛隊派遣せず」は、そうした思想的背景から出てきたものなのかもしれない。
だとすれば、鳩山首相はその理念を国際社会に向かってはっきりと、ウィルソンが民族自決の原則を主張したように(あるいは無併合・無賠償を主張した第一次大戦時のレーニンのように?)わかりやすい形で訴えて欲しい。でないと、日本は世界から、「既得権を自ら次々放棄して没落していったマヌケな国」と評されて忘れ去られるだろうから。
◆本日のゴイス菜園

庭植えのサトイモを2株収穫したでゴイス。こんなに収穫できたのは初めてでゴイス。
さて、いまさらなのであるが、2、3ヶ月くらい前に話題になった鳩山論文を読んでみた。反米宣言などと揶揄されたくらいだからどんなにスゴイものなんだろうかと期待(?)して読んでみたけど、別に大したことないではないか。取り立てて目新しいことを言ってるわけでもなく、社会学専攻の学生が書いたレポートのようなものだ(吾輩も偉そうによく言うね)。むしろ、日本の文脈で言えばさほど過激とも思えないこの論文が、アメリカの文脈に置かれたとき、あれだけの反発を生むものなんだなぁ〜、とアメリカ人の“社会主義嫌い”の強さを思った。
論文の内容はおおむね頷ける。過剰な自由主義に向かうことなく、かといって抑圧の共同体に陥ることもないように、ヤジロベエよろしく「友愛精神」で釣合いを取っていこう、ということなんだと思う。ただ、論文で明瞭になっていないのは、その「友愛社会」をどうやって実現するのかということである。「友愛」は、言ってみれば道徳みたいなものである。その道徳に頼って「友愛社会」を実現しようというのは、宗教家の唱えるところではあっても政治家の唱えるところではない。現代社会が抱える問題を道徳的に解決しようするのではなく、あくまで制度的に(あるいは社会学的にというべきか)解決しなければならない。それは国民に道徳を強制することができないからである。同様に、他国の国民に「友愛精神」を期待することもできない。保守派、というか現実主義者たちが憂慮するのもこの点であろう。仮に尖閣諸島を中国に譲り、竹島を韓国に譲ったとしても、それで中韓と仲良くなれる保証などないからである。
それでも先進国は譲らなければならない、と鳩山首相は考えているのかもしれない。そしてそれは理論的には間違っていないようにもみえる。例えばイスラム原理主義者たちのテロリズムはどうすれば収まるかを考えてみよう。アメリカは、「民主化した国は戦争をしない」というデモクラティック・ピース論に基づいて、イラクやアフガニスタンを民主化しようとする。しかしそれでアメリカに対するテロはなくなるだろうか。たぶん、なくならない。なぜなら、アメリカを頂点とする覇権体制が続く限り、不平等は構造化される。それでは不平等を強いられる国の人々の恨みが消えることはないからである。この構造(恨み)を解消するためには、既得権を持つ国々(先進国)が率先して既得権を放棄しなければならないだろう。鳩山首相が主張した自国に厳しすぎるとも思える「温室効果ガス25%削減」や、デモクラティック・ピース論に対するアンチテーゼをうかがわせる「アフガンへの自衛隊派遣せず」は、そうした思想的背景から出てきたものなのかもしれない。
だとすれば、鳩山首相はその理念を国際社会に向かってはっきりと、ウィルソンが民族自決の原則を主張したように(あるいは無併合・無賠償を主張した第一次大戦時のレーニンのように?)わかりやすい形で訴えて欲しい。でないと、日本は世界から、「既得権を自ら次々放棄して没落していったマヌケな国」と評されて忘れ去られるだろうから。
◆本日のゴイス菜園

庭植えのサトイモを2株収穫したでゴイス。こんなに収穫できたのは初めてでゴイス。
いやはや、ちょうど胃を痛めていたところに風邪を引いてしまったので、シナジー効果で胃が重いこと重いこと。風邪自体は喉が少し痛いだけで軽症なのだけどね。ただ、胃薬と風邪薬を併用してもいいのかどうか悩んでしまう。そんなときのためにドラッグストアには薬剤師がいるのかもしれないけど、はたして「市販薬Aと市販薬Bは併用できるか否か?」みたいな細かいことまで薬剤師が把握しているものなんだろうか。
そういえば、最近は今までと違って風邪薬を買うとレジであれこれ薬の説明を受けたりするようになった。一方、ネットで薬を買うことはできなくなってしまった。はっきりいってこれは不便なんだが、では、対面販売なら上に書いたような客の質問に十分対応できるといえるのだろうか。なんだか不便になっただけで、メリットが感じられないのだが・・・
それにしても、クスリひとつ買うにも対面じゃなきゃダメだとか、10万円以上の銀行振込は身分証明が必要だとか(それもこれも北朝鮮のせいだが)、世の中少しずつ窮屈になっていることを感じる。村上信夫氏が『帝国ホテル 厨房物語』で、「(戦前の日本は)貧しかったが、社会にゆとりがあって、のんびりしていた。・・・社会に遊びというか、『のりしろ』のような部分があった」と回想していたけど、管理社会への方向性は不可逆なんだろうなぁ。
そういえば、最近は今までと違って風邪薬を買うとレジであれこれ薬の説明を受けたりするようになった。一方、ネットで薬を買うことはできなくなってしまった。はっきりいってこれは不便なんだが、では、対面販売なら上に書いたような客の質問に十分対応できるといえるのだろうか。なんだか不便になっただけで、メリットが感じられないのだが・・・
それにしても、クスリひとつ買うにも対面じゃなきゃダメだとか、10万円以上の銀行振込は身分証明が必要だとか(それもこれも北朝鮮のせいだが)、世の中少しずつ窮屈になっていることを感じる。村上信夫氏が『帝国ホテル 厨房物語』で、「(戦前の日本は)貧しかったが、社会にゆとりがあって、のんびりしていた。・・・社会に遊びというか、『のりしろ』のような部分があった」と回想していたけど、管理社会への方向性は不可逆なんだろうなぁ。
昨年、加藤周一氏が亡くなって、そのあとNHKで放送された番組『加藤周一1968年を語る〜「言葉と戦車」ふたたび〜』を見て以来、1968年という年が気になっていた。一旦気になると、“1968”という文字がやたら目に付くようになってしまう。ちょっとアマゾンで本を探している間にも、こんな(↓)感じなのである(ひとつも買ってないけど)。
すが秀実『1968年』(ちくま新書・2006年)
鹿島茂『吉本隆明1968』(平凡社新書・2009年)
小熊英二『1968』(新曜社・2009年)
とよだもとゆき『村上春樹と小阪修平の1968年』(新泉社・2009年)
これらの本の著者は小熊氏を除いてすべて団塊の世代だった。とよだ氏の本の表題となっている村上春樹氏と小阪修平氏もともに団塊の世代だ。鹿島氏の本の表題となっている吉本隆明氏は1924年生まれで団塊の世代に影響を及ぼした評論家である。この中では小熊氏が1962年生まれで団塊の世代よりひと回りちょっと若いが、団塊の世代との関係を強引にこじつけるなら、1983年がヒントになる。というのはこの年、現代思想ブームがあって、そのブームに乗って登場した多くの若手評論家たちが団塊の世代だったのである。そしてその時大学生だったのが、1962年前後に生まれた世代というわけ。もっとも小熊氏自身が現代思想ブームの洗礼を受けたかどうか、吾輩の知るところではないが。
今、1968年から40年が過ぎ、単なるノスタルジーから「1968年」が語られているわけではなさそうな気がする。40年が過ぎて、ようやく1968年の意味がわかり始めたのかもしれない。加藤周一氏は先の番組で、「1968年と今は似ている」と言っていた。「当時も今と同じく閉塞感が漂っており、人々は何かを変えたいという気持ちを持っていた(オバマの「チェンジ」と同様、1968年のパリも「チェンジ」が合言葉だったらしい)。が、表現の方法を見出していない。そういう意味で1968年は終わっていないのだ」とのこと。吾輩は1968年には一応生まれてはいたが、まだ“ガキんちょ”だったので、「1968年と今が似ている」と言われてもピンとこない。加藤氏は何を伝えたかったのだろう。「1968年と今が似ている」というより、「1968年が“現代”の始まり」だったのではないだろうか? だから、「1968年は終わっていない」。ではどういう意味で1968年が「“現代”の始まり」なのか?
続きはまたそのうち(なんか思いっきり大それたテーマになってしまったなぁ)。
◆本日のエクササイズ
自宅〜村田〜岩沼〜自宅:55.9km

実は貧血になっていたようなので、今まで走るのを控えていた。今日走ってみた感じでは、良くも悪くもなっていないようだ。
すが秀実『1968年』(ちくま新書・2006年)
鹿島茂『吉本隆明1968』(平凡社新書・2009年)
小熊英二『1968』(新曜社・2009年)
とよだもとゆき『村上春樹と小阪修平の1968年』(新泉社・2009年)
これらの本の著者は小熊氏を除いてすべて団塊の世代だった。とよだ氏の本の表題となっている村上春樹氏と小阪修平氏もともに団塊の世代だ。鹿島氏の本の表題となっている吉本隆明氏は1924年生まれで団塊の世代に影響を及ぼした評論家である。この中では小熊氏が1962年生まれで団塊の世代よりひと回りちょっと若いが、団塊の世代との関係を強引にこじつけるなら、1983年がヒントになる。というのはこの年、現代思想ブームがあって、そのブームに乗って登場した多くの若手評論家たちが団塊の世代だったのである。そしてその時大学生だったのが、1962年前後に生まれた世代というわけ。もっとも小熊氏自身が現代思想ブームの洗礼を受けたかどうか、吾輩の知るところではないが。
今、1968年から40年が過ぎ、単なるノスタルジーから「1968年」が語られているわけではなさそうな気がする。40年が過ぎて、ようやく1968年の意味がわかり始めたのかもしれない。加藤周一氏は先の番組で、「1968年と今は似ている」と言っていた。「当時も今と同じく閉塞感が漂っており、人々は何かを変えたいという気持ちを持っていた(オバマの「チェンジ」と同様、1968年のパリも「チェンジ」が合言葉だったらしい)。が、表現の方法を見出していない。そういう意味で1968年は終わっていないのだ」とのこと。吾輩は1968年には一応生まれてはいたが、まだ“ガキんちょ”だったので、「1968年と今が似ている」と言われてもピンとこない。加藤氏は何を伝えたかったのだろう。「1968年と今が似ている」というより、「1968年が“現代”の始まり」だったのではないだろうか? だから、「1968年は終わっていない」。ではどういう意味で1968年が「“現代”の始まり」なのか?
続きはまたそのうち(なんか思いっきり大それたテーマになってしまったなぁ)。
◆本日のエクササイズ
自宅〜村田〜岩沼〜自宅:55.9km

実は貧血になっていたようなので、今まで走るのを控えていた。今日走ってみた感じでは、良くも悪くもなっていないようだ。
まだしつこく生きてるようだね、ジョンイル。9月には逝くかと思ってたのに。後継者関連のニュースが途絶えたところをみると、快復基調なんだろうか。ツマラン。
そりゃそうと、今まで見逃してしまって見たい見たいと思っていた番組をやっとネットでみつけて見ることができた。その番組とは、NHKスペシャルの『ドキュメント北朝鮮 第1集 個人崇拝への道』『同 第2集 隠された世襲』『同 第3集 核をめぐる戦慄』である。一旦見逃してしまうとDVDにでもならない限り、ほぼ見る機会を失ってしまうので、ネット環境は実にありがたいものである。NHKではごく一部の番組を有料でオンデマンド配信しているようだが、NHKスペシャルはいい番組なので、是非過去のすべての放映分をオンデマンド配信してほしい。これらは国民全体の資産であろうと思うので。
で、『ドキュメント北朝鮮』を見ていて強く感じたことは、金日成や金正日の国家観は、たぶん我々の国家観とはまったく違うのであろうなということだった。元はといえば、パルチザンごっこ、革命ごっこをしていた金日成が運良くロシアに見出されて北朝鮮の統治を任されたわけだが、金日成のほうではそういう認識ではなかったと思う。つまり、「(ロシアあるいは擬制的に国民から)委任されて統治権を与えられた」という感覚ではなく、「国家の所有権を手に入れた」という感覚だったろう。だから北朝鮮という国家には「公」の部分がまったくなく、どこまでいってもキム家の私的領域なのである。
土地も住民もキム家の私有物なのであるから、住民をどう躾けようと、どう処分しようと自分たちの勝手じゃないか、そう思っているのだろう。我々が家の中を綺麗に掃除するように、キム親子も家の中のゴミを見つけてはせっせと収容所にまとめたり処刑したりして綺麗にしているつもりなんだと思う。こうして綺麗になった我が家も、他人に乗っ取られてしまっては元も子もない。キム親子の世界観では、この世には米帝や日帝などの悪魔が住んでおり、ことあるごとに難癖つけては我が家の崩壊を企てようとしている、だから我が家を守るためには核兵器が必要だ、ということになる。わが子である住民たちも、我が家を守るために親に従うのは当然、という感覚なんだろう。
まこと北朝鮮こそ、キム親子の思想が作り上げた作品であって、歪んだ国家観と世界観が、かくも奇妙な国家を生み出すというよい例であろう。
ここでふと疑問に感じることがある。世界にはそれぞれ「公/私」の概念がある。ヨーロッパでは、「公=政治の領域/私=家庭の領域」みたいな感じだし、日本では滅私奉公みたいなイメージの「公/私」がある。中国の場合は公=天であり、これは公平を意味していたらしい。だから朝廷が土地を独占することは「大私(=専有)」であって、公平にもとると感じられていたようだ(『中国思想史』(溝口雄三・他)による)。この中国の感覚からいえば、キム家がやってることは「大私(=専有)」の最たるものにほかならないわけだが、北朝鮮の住民にはこれがどのように感じられているのだろうか。李氏朝鮮時代には、両班は思いのまま住民から資産を取り上げることができたらしいが、もしかすると朝鮮社会には伝統的に「公」の概念がなかったのではなかろうか。「大私」から「小私」まで、同心円的に「私」だけが存在する社会、従って在地社会が育たず、住民はそれぞれの「私」に寄生して生きていく。「恨」とはそのような社会から生まれたものではなかろうか。
そりゃそうと、今まで見逃してしまって見たい見たいと思っていた番組をやっとネットでみつけて見ることができた。その番組とは、NHKスペシャルの『ドキュメント北朝鮮 第1集 個人崇拝への道』『同 第2集 隠された世襲』『同 第3集 核をめぐる戦慄』である。一旦見逃してしまうとDVDにでもならない限り、ほぼ見る機会を失ってしまうので、ネット環境は実にありがたいものである。NHKではごく一部の番組を有料でオンデマンド配信しているようだが、NHKスペシャルはいい番組なので、是非過去のすべての放映分をオンデマンド配信してほしい。これらは国民全体の資産であろうと思うので。
で、『ドキュメント北朝鮮』を見ていて強く感じたことは、金日成や金正日の国家観は、たぶん我々の国家観とはまったく違うのであろうなということだった。元はといえば、パルチザンごっこ、革命ごっこをしていた金日成が運良くロシアに見出されて北朝鮮の統治を任されたわけだが、金日成のほうではそういう認識ではなかったと思う。つまり、「(ロシアあるいは擬制的に国民から)委任されて統治権を与えられた」という感覚ではなく、「国家の所有権を手に入れた」という感覚だったろう。だから北朝鮮という国家には「公」の部分がまったくなく、どこまでいってもキム家の私的領域なのである。
土地も住民もキム家の私有物なのであるから、住民をどう躾けようと、どう処分しようと自分たちの勝手じゃないか、そう思っているのだろう。我々が家の中を綺麗に掃除するように、キム親子も家の中のゴミを見つけてはせっせと収容所にまとめたり処刑したりして綺麗にしているつもりなんだと思う。こうして綺麗になった我が家も、他人に乗っ取られてしまっては元も子もない。キム親子の世界観では、この世には米帝や日帝などの悪魔が住んでおり、ことあるごとに難癖つけては我が家の崩壊を企てようとしている、だから我が家を守るためには核兵器が必要だ、ということになる。わが子である住民たちも、我が家を守るために親に従うのは当然、という感覚なんだろう。
まこと北朝鮮こそ、キム親子の思想が作り上げた作品であって、歪んだ国家観と世界観が、かくも奇妙な国家を生み出すというよい例であろう。
ここでふと疑問に感じることがある。世界にはそれぞれ「公/私」の概念がある。ヨーロッパでは、「公=政治の領域/私=家庭の領域」みたいな感じだし、日本では滅私奉公みたいなイメージの「公/私」がある。中国の場合は公=天であり、これは公平を意味していたらしい。だから朝廷が土地を独占することは「大私(=専有)」であって、公平にもとると感じられていたようだ(『中国思想史』(溝口雄三・他)による)。この中国の感覚からいえば、キム家がやってることは「大私(=専有)」の最たるものにほかならないわけだが、北朝鮮の住民にはこれがどのように感じられているのだろうか。李氏朝鮮時代には、両班は思いのまま住民から資産を取り上げることができたらしいが、もしかすると朝鮮社会には伝統的に「公」の概念がなかったのではなかろうか。「大私」から「小私」まで、同心円的に「私」だけが存在する社会、従って在地社会が育たず、住民はそれぞれの「私」に寄生して生きていく。「恨」とはそのような社会から生まれたものではなかろうか。
そろそろ東北地方は芋煮会のシーズンでゴイスね。あちこちで芋煮会用の薪が売られているでゴイス。なぜ秋に芋煮会をするのか考えたこともなかったけど、サトイモが採れるのが今頃だからなんだろうね。サトイモが縄文時代に伝わったという話は、ホントなんだろうか。
ということで、本日は『神社の誕生と古代氏族の形成過程』のつづき。
前回は、渡来人がもたらした人格神を神社に祭ることで、神社がムラ統合の施設となったところまで書いた。しかしそうなると、先住氏族の祭政権を継承する場がなくなってしまう。そこで、祭政権継承の儀式は、「原始神社」から分離した葬地(墳墓)の前で行うことになった。それゆえ初めは円形だった墳墓に儀式を行う場(方形部分)が付け加わって前方後円墳の形になった、というのが吾輩の推定である(下図参照)。
ところで異人の風俗を受け入れたのはなにも縄文人の側だけではなかった。弥生人(長江からの渡来人)も縄文人の風俗を受け入れた。その一つが祖霊信仰である。弥生人は、弥生時代の初めから一貫してムラの外に墓を営んだ。これは弥生人が死を穢れたものとして忌み嫌ったためであろう。従って、彼らに祖霊信仰はなかった。ところがそんな彼らも時代を経るうち縄文人の祖霊信仰を受け入れるようになった。その理由は、ムラを安定的に運営するためには祭政権を特定氏族に固定させたほうが良い、そのための正統化論理として縄文人の祖霊信仰を取り入れよう、と考えたからであろう。こうして結局、縄文人も弥生人も互いの風俗を取り入れることでそれぞれ支配氏族の権力を強化した。
さて、神社に祭る神を祖霊から人格神に変えたことは、対外的にはムラ(=クニ)同士のネットワークを作りやすくした。擬制血縁関係が当たり前の社会にあっては、ムラの祭神同士を血縁関係に見立て、ムラとムラの結束強化を図る政策は受け入れやすかった。加えて好都合だったのは、渡来人がもたらした神話の神々が基本的には対等で、上下関係がなかったことだ。こうしてムラとムラが対等な関係を結んだ印として、神と神の血縁関係が作られていった。ある地方ではアマテラスとスサノヲが兄弟となったり、また別の地方では夫婦となったりしただろう。『記・紀』に異説が多いのは、かかる事情のためである。
しかし時代を下るにつれて、各豪族間の格差が広がり、対等の神々という神話と現実の間に齟齬を生じるようになってきた。そこで現実を反映するように神話が再構成されていったと思われる。と同時に、この過程の中で墓制も統一されていった。朝鮮半島南部にも前方後円墳が存在することから、任那もこの豪族間ネットワークの末端に連なっていたであろう。こうして弥生時代は過ぎていくのだが、結局、弥生時代を通じて、他を超越する神=国家神は生まれなかった。では、国家神はいつ誕生したのだろうか。
敗戦のショックが改革の契機になる、ということが、この列島の歴史では多いようだ。もっとも先の大戦の場合は、自ら受け入れたというよりアメリカに強制された側面が強いわけだが、それ以前で言えば、明治維新しかり、白村江の戦いしかりである。ところがここにもう一つ先例があった。それは、5世紀初頭のヤマト豪族連合と高句麗との戦いである。その様子は好太王碑文に書かれている通り、日本側の大敗であった。溝口睦子の『アマテラスの誕生』によれば、このショックが敵方の政治思想を取り入れるきっかけになったという。ではその政治思想とはなにか。それが、天降り神話(天孫降臨神話)だったのである。
天降り神話は、朝鮮半島に広く分布している神話であることから、天皇=半島系の根拠の一つになっている。しかしこれは、日本と朝鮮の関係だけをみた視野狭窄の歴史観である。天降り神話は、もともとモンゴルなどの北方民族の神話である。それが満州から半島、列島へと伝わったのだ。そもそも高句麗、百済を建国した支配層はツングース系かそれに近い半農半猟の民族だとされる。この支配層は、北方民族の神話を携えて半島に至り、統治した。だから半島にも天降り神話があるのである。その神話の統治原理とは、天を出自とする王が唯一絶対の権威を持って国土を専制的に支配する、というものであった。高句麗との敗戦で、ヤマト豪族連合は動揺したことであろう。そしてその後の政策を巡って、互いに対立したことであろう。その結果、おそらく崇神王朝から応神王朝へと政権交代した。応神王朝は天降り神話を導入して統一王権の建設に乗り出した。このとき大王の守護神とされた国家神がタカミムスヒであった。
のちの600年、日本は遣隋使を派遣した。日本の使者は隋の文帝にこう言ったと『隋書』に記されている。「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」と。おそらくこの「天」こそ、天降り神話における絶対的権威の源泉である「天」であったろう。ところがこれを聞いた文帝に、「此れはなはだ義理なし」と一笑に付されてしまう。このときのショック――敗戦ショックほどではないにせよ、ニクソンショックほどではあったろう――が聖徳太子をして国政改革にあたらせたと思われる。
このように、古代日本の政治思想は、縄文人の祖霊信仰、渡来人の南方系神話に加えて、北東アジアの天降り神話、さらに中国の律令制が取り入れられて発展していった。このうち、南方系神話を担った集団も、天降り神話を担った集団も、(モンゴルを除いて)現代の国民国家を形成するに至らなかった。それゆえ現代の視点からは、これらの文化・文明が軽視される傾向がある。そのいい例が、NHKの番組「日本と朝鮮半島2000年」だ。ここには日本と朝鮮半島の関係だけが描かれているため、まるで日本は朝鮮半島の影響だけを受けてきたかのようである。しかも朝鮮半島自身については、長江からの渡来人の影響も、北方民族の影響も無視されている。それゆえ「朝鮮=先進/日本=後進」のような視野狭窄の歴史像となっているのである。しかし、視野を広く東アジアに広げれば、日本も朝鮮もその周辺民族の影響を受けてきたことは明らかだ。ただ朝鮮半島のほうが大陸と陸続きであることから、その受容が日本よりいくぶん早かったというに過ぎない。歴史の真相に迫るには、一国歴史学を単純に足し合わせていくだけではダメなのである。NHKの番組制作者に猛省を促したい。

ということで、本日は『神社の誕生と古代氏族の形成過程』のつづき。
前回は、渡来人がもたらした人格神を神社に祭ることで、神社がムラ統合の施設となったところまで書いた。しかしそうなると、先住氏族の祭政権を継承する場がなくなってしまう。そこで、祭政権継承の儀式は、「原始神社」から分離した葬地(墳墓)の前で行うことになった。それゆえ初めは円形だった墳墓に儀式を行う場(方形部分)が付け加わって前方後円墳の形になった、というのが吾輩の推定である(下図参照)。
ところで異人の風俗を受け入れたのはなにも縄文人の側だけではなかった。弥生人(長江からの渡来人)も縄文人の風俗を受け入れた。その一つが祖霊信仰である。弥生人は、弥生時代の初めから一貫してムラの外に墓を営んだ。これは弥生人が死を穢れたものとして忌み嫌ったためであろう。従って、彼らに祖霊信仰はなかった。ところがそんな彼らも時代を経るうち縄文人の祖霊信仰を受け入れるようになった。その理由は、ムラを安定的に運営するためには祭政権を特定氏族に固定させたほうが良い、そのための正統化論理として縄文人の祖霊信仰を取り入れよう、と考えたからであろう。こうして結局、縄文人も弥生人も互いの風俗を取り入れることでそれぞれ支配氏族の権力を強化した。
さて、神社に祭る神を祖霊から人格神に変えたことは、対外的にはムラ(=クニ)同士のネットワークを作りやすくした。擬制血縁関係が当たり前の社会にあっては、ムラの祭神同士を血縁関係に見立て、ムラとムラの結束強化を図る政策は受け入れやすかった。加えて好都合だったのは、渡来人がもたらした神話の神々が基本的には対等で、上下関係がなかったことだ。こうしてムラとムラが対等な関係を結んだ印として、神と神の血縁関係が作られていった。ある地方ではアマテラスとスサノヲが兄弟となったり、また別の地方では夫婦となったりしただろう。『記・紀』に異説が多いのは、かかる事情のためである。
しかし時代を下るにつれて、各豪族間の格差が広がり、対等の神々という神話と現実の間に齟齬を生じるようになってきた。そこで現実を反映するように神話が再構成されていったと思われる。と同時に、この過程の中で墓制も統一されていった。朝鮮半島南部にも前方後円墳が存在することから、任那もこの豪族間ネットワークの末端に連なっていたであろう。こうして弥生時代は過ぎていくのだが、結局、弥生時代を通じて、他を超越する神=国家神は生まれなかった。では、国家神はいつ誕生したのだろうか。
敗戦のショックが改革の契機になる、ということが、この列島の歴史では多いようだ。もっとも先の大戦の場合は、自ら受け入れたというよりアメリカに強制された側面が強いわけだが、それ以前で言えば、明治維新しかり、白村江の戦いしかりである。ところがここにもう一つ先例があった。それは、5世紀初頭のヤマト豪族連合と高句麗との戦いである。その様子は好太王碑文に書かれている通り、日本側の大敗であった。溝口睦子の『アマテラスの誕生』によれば、このショックが敵方の政治思想を取り入れるきっかけになったという。ではその政治思想とはなにか。それが、天降り神話(天孫降臨神話)だったのである。
天降り神話は、朝鮮半島に広く分布している神話であることから、天皇=半島系の根拠の一つになっている。しかしこれは、日本と朝鮮の関係だけをみた視野狭窄の歴史観である。天降り神話は、もともとモンゴルなどの北方民族の神話である。それが満州から半島、列島へと伝わったのだ。そもそも高句麗、百済を建国した支配層はツングース系かそれに近い半農半猟の民族だとされる。この支配層は、北方民族の神話を携えて半島に至り、統治した。だから半島にも天降り神話があるのである。その神話の統治原理とは、天を出自とする王が唯一絶対の権威を持って国土を専制的に支配する、というものであった。高句麗との敗戦で、ヤマト豪族連合は動揺したことであろう。そしてその後の政策を巡って、互いに対立したことであろう。その結果、おそらく崇神王朝から応神王朝へと政権交代した。応神王朝は天降り神話を導入して統一王権の建設に乗り出した。このとき大王の守護神とされた国家神がタカミムスヒであった。
のちの600年、日本は遣隋使を派遣した。日本の使者は隋の文帝にこう言ったと『隋書』に記されている。「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」と。おそらくこの「天」こそ、天降り神話における絶対的権威の源泉である「天」であったろう。ところがこれを聞いた文帝に、「此れはなはだ義理なし」と一笑に付されてしまう。このときのショック――敗戦ショックほどではないにせよ、ニクソンショックほどではあったろう――が聖徳太子をして国政改革にあたらせたと思われる。
このように、古代日本の政治思想は、縄文人の祖霊信仰、渡来人の南方系神話に加えて、北東アジアの天降り神話、さらに中国の律令制が取り入れられて発展していった。このうち、南方系神話を担った集団も、天降り神話を担った集団も、(モンゴルを除いて)現代の国民国家を形成するに至らなかった。それゆえ現代の視点からは、これらの文化・文明が軽視される傾向がある。そのいい例が、NHKの番組「日本と朝鮮半島2000年」だ。ここには日本と朝鮮半島の関係だけが描かれているため、まるで日本は朝鮮半島の影響だけを受けてきたかのようである。しかも朝鮮半島自身については、長江からの渡来人の影響も、北方民族の影響も無視されている。それゆえ「朝鮮=先進/日本=後進」のような視野狭窄の歴史像となっているのである。しかし、視野を広く東アジアに広げれば、日本も朝鮮もその周辺民族の影響を受けてきたことは明らかだ。ただ朝鮮半島のほうが大陸と陸続きであることから、その受容が日本よりいくぶん早かったというに過ぎない。歴史の真相に迫るには、一国歴史学を単純に足し合わせていくだけではダメなのである。NHKの番組制作者に猛省を促したい。

もう10月。秋の日はつるべ落としでゴイス。結局インフルエンザのゴタゴタが収まらないまま冬に向かうのだろうか。なんだか不気味だなぁ。家に御札でも貼っておこうか?
思わず「御札を・・・」と、現代人でさえ思い浮かべてしまうくらいだから、古代人が災いにあったとき、霊力でそれを防ごうと考えたとしても不思議はなかろう。この災いを防ぐ神(=塞の神)が古代日本の神社を形成する一つの因子だったのではないか、というのが本日のお話(仮説)である。
随分前に、このブログで『神社の起源』というエントリを投稿したことがあるけれども、そこで述べたように、古代人(吾輩の想定では縄文人)は、人が死ぬと穴を掘って死者を埋め、土を盛った。それ(墳墓)が「モリ」である。鳥越憲三郎の『古代朝鮮と倭族』によると、沖縄の自然村落には必ず一つの御嶽(ウタキ)があるという。ウタキとは、「神が鎮まるにふさわしい円錐状、または笠状の整った山、または樹林である」(p.178)。この山、または樹林の中の特定の岩や樹木が神の依り代として村の人々に崇拝された。その祭祀権は、村を開拓した先住氏族が持つのだそうである。
古代の縄文人も、同じような生活形態だったのではなかろうか。つまり、ある集団が何らかの理由で元のムラを離れてある土地に移住し、そこにムラを開拓する。彼らのうち、死んでいった者は葬地の塚に埋められた。彼らはその塚を「モリ」と呼んだ。埋められた死者の魂は、そこから山に帰って行く。その山は、東北地方の場合、「○○モリ」と呼ばれるおむすび型をした低山だった。塚の手前には祭場(ニワ)が設けられおり、祭の時のみ仮小屋が建てられた。そこでムラの住民たちは祖霊降臨を見守った。

おむすび型をした山。鹿ノ上森(左)と中ノ森(右)。
葬地は当然神聖な場所だから、聖域を区別するための樹木が植えられた(境木)。しかしそれだけでは邪気や邪霊は防げない。そこで縄文人が目をつけたのが、弥生人(長江からの渡来人)がもたらした「塞の神」である。塞の神は、のちに日本では「石神」や「道祖神」などになったが、弥生人がもたらした当時は、ムラの入り口などに邪霊を防ぐ目的で据えられた神木や石や縄であった。縄文人はこれを葬地の前に立てた。こうして、門(塞の神)と祭場(ニワ)と葬地(モリ)という組み合わせができた。さしあたりこれを「原始神社」と呼んでおこう。
ところがのちに、祭場と葬地が分離していく。分離していった理由はわからない。おそらくは、墳墓が巨大化していったためではなかろうか。吾輩の住んでいる宮城県には、佐倍乃神社という名の神社がある。佐倍乃と書いて「サエノ」と読む。近世は道祖神と呼ばれていたが、それ以前は佐倍乃神社であった。つまり塞の神なのである。この神社のすぐ近くには、賽ノ窪古墳群が存在する。この事例は、もともと同じ場所にあった祭場と葬地が分離していったことをうかがわせる。

佐倍乃神社。古代官道が通っていたと推定される道沿いにある。
では、墳墓がなくなった祭場では何を祭ったか。おそらく、渡来人がもたらした神話の神(アマテラスなど)を祭ったと思われる。「原始神社」から葬地部分が分離されてはじめて、神話の神が祭場の御神体となった。神社の誕生である。ではなぜ、御神体が祖霊から神話の神になったのか。
沖縄のウタキがそうであったように、縄文人においても祖霊を祀る権限はムラを開拓した先住氏族が持っていたであろう。そして後住の氏族も、氏神を祀る氏子のように開拓氏族の祖霊を祀っていたであろう。やがて時を経るうち、先住氏族の祭政権が大きくなり、開拓氏族と後住氏族の関係は、豪族と部民のような形になっていったと思われる。こうして同じ一つのムラ(=クニ)が2つの階層に分離される。そうなると、クニを統合するためのなんらかの論理が必要になってくる。
ここで大切なことは、この時代はまだ血統意識が薄弱であったということだ。血統意識はずっと後年になってから強化されたものであって、この頃は、親子意識や漠然とした血縁意識くらいはあったであろうが、本家/分家意識や世襲観念はまだなかった。だから先住氏族の祭祀権(氏上の地位)も親から子へ世襲されていたわけではなく、オバからメイさらにシュウトメにという具合に先住氏族の間で祭祀権が移ったのである。古代人は、権力が移行するのは祖霊が“ある人”から“別の人”に乗り移ったから、と考えていたのであって、血の濃さは関係なかった。とはいえ、血縁意識がまったくなかったわけでもないから、祭祀権が移り変わる先住氏族の集団を、逆に一つの血縁集団と捉えたのである。つまり、ホントに血縁関係があるかどうかではなく、祭祀権が移り変わる集団に擬制としての血縁関係が取り入れられたということである。だからもしオバからメイに祭祀権が移った場合は、オバとメイが「親―子」とされたであろう。溝口睦子の『アマテラスの誕生』によれば、古代氏族の系譜は「擬制系譜なのである」(p.46)。そもそも日本の場合、親子関係を模した擬制がはなはだ多い(親分―子分、親方―弟子、大家―店子、親会社―子会社)。こうした擬制血縁関係を利用して氏族を拡張していった集団が、蘇我氏とか吉備氏であろう。彼らはホントの意味での血縁集団ではないのである。
さて、この擬制としての血縁関係がクニの統合にも用いられた。古代における「神話」は、現代で言えば「政治思想」に当たる。支配層と被支配層の間には、祭政権が移行するかしないかの壁がありながら、それでも支配層と被支配層の間には「親―子」関係がある、というロジックを作りたかった。そこで先住氏族の祖霊の代わりに渡来人がもたらした人格神を祭ることで、「我々はみな同じ神の子孫である」という方便を用いることにしたのである。
このように、古代において神社は共同体の凝集力の核として機能した。ただし、この時代、豪族が利用した神話は南方系要素の強い神話であって、弥生時代にはまだ天孫降臨神話は存在しなかった。「あれ? 弥生時代に天皇が朝鮮半島からやってきて日本を支配したんじゃなかったの?」
つづきはまた。
思わず「御札を・・・」と、現代人でさえ思い浮かべてしまうくらいだから、古代人が災いにあったとき、霊力でそれを防ごうと考えたとしても不思議はなかろう。この災いを防ぐ神(=塞の神)が古代日本の神社を形成する一つの因子だったのではないか、というのが本日のお話(仮説)である。
随分前に、このブログで『神社の起源』というエントリを投稿したことがあるけれども、そこで述べたように、古代人(吾輩の想定では縄文人)は、人が死ぬと穴を掘って死者を埋め、土を盛った。それ(墳墓)が「モリ」である。鳥越憲三郎の『古代朝鮮と倭族』によると、沖縄の自然村落には必ず一つの御嶽(ウタキ)があるという。ウタキとは、「神が鎮まるにふさわしい円錐状、または笠状の整った山、または樹林である」(p.178)。この山、または樹林の中の特定の岩や樹木が神の依り代として村の人々に崇拝された。その祭祀権は、村を開拓した先住氏族が持つのだそうである。
古代の縄文人も、同じような生活形態だったのではなかろうか。つまり、ある集団が何らかの理由で元のムラを離れてある土地に移住し、そこにムラを開拓する。彼らのうち、死んでいった者は葬地の塚に埋められた。彼らはその塚を「モリ」と呼んだ。埋められた死者の魂は、そこから山に帰って行く。その山は、東北地方の場合、「○○モリ」と呼ばれるおむすび型をした低山だった。塚の手前には祭場(ニワ)が設けられおり、祭の時のみ仮小屋が建てられた。そこでムラの住民たちは祖霊降臨を見守った。

おむすび型をした山。鹿ノ上森(左)と中ノ森(右)。
葬地は当然神聖な場所だから、聖域を区別するための樹木が植えられた(境木)。しかしそれだけでは邪気や邪霊は防げない。そこで縄文人が目をつけたのが、弥生人(長江からの渡来人)がもたらした「塞の神」である。塞の神は、のちに日本では「石神」や「道祖神」などになったが、弥生人がもたらした当時は、ムラの入り口などに邪霊を防ぐ目的で据えられた神木や石や縄であった。縄文人はこれを葬地の前に立てた。こうして、門(塞の神)と祭場(ニワ)と葬地(モリ)という組み合わせができた。さしあたりこれを「原始神社」と呼んでおこう。
ところがのちに、祭場と葬地が分離していく。分離していった理由はわからない。おそらくは、墳墓が巨大化していったためではなかろうか。吾輩の住んでいる宮城県には、佐倍乃神社という名の神社がある。佐倍乃と書いて「サエノ」と読む。近世は道祖神と呼ばれていたが、それ以前は佐倍乃神社であった。つまり塞の神なのである。この神社のすぐ近くには、賽ノ窪古墳群が存在する。この事例は、もともと同じ場所にあった祭場と葬地が分離していったことをうかがわせる。

佐倍乃神社。古代官道が通っていたと推定される道沿いにある。
では、墳墓がなくなった祭場では何を祭ったか。おそらく、渡来人がもたらした神話の神(アマテラスなど)を祭ったと思われる。「原始神社」から葬地部分が分離されてはじめて、神話の神が祭場の御神体となった。神社の誕生である。ではなぜ、御神体が祖霊から神話の神になったのか。
沖縄のウタキがそうであったように、縄文人においても祖霊を祀る権限はムラを開拓した先住氏族が持っていたであろう。そして後住の氏族も、氏神を祀る氏子のように開拓氏族の祖霊を祀っていたであろう。やがて時を経るうち、先住氏族の祭政権が大きくなり、開拓氏族と後住氏族の関係は、豪族と部民のような形になっていったと思われる。こうして同じ一つのムラ(=クニ)が2つの階層に分離される。そうなると、クニを統合するためのなんらかの論理が必要になってくる。
ここで大切なことは、この時代はまだ血統意識が薄弱であったということだ。血統意識はずっと後年になってから強化されたものであって、この頃は、親子意識や漠然とした血縁意識くらいはあったであろうが、本家/分家意識や世襲観念はまだなかった。だから先住氏族の祭祀権(氏上の地位)も親から子へ世襲されていたわけではなく、オバからメイさらにシュウトメにという具合に先住氏族の間で祭祀権が移ったのである。古代人は、権力が移行するのは祖霊が“ある人”から“別の人”に乗り移ったから、と考えていたのであって、血の濃さは関係なかった。とはいえ、血縁意識がまったくなかったわけでもないから、祭祀権が移り変わる先住氏族の集団を、逆に一つの血縁集団と捉えたのである。つまり、ホントに血縁関係があるかどうかではなく、祭祀権が移り変わる集団に擬制としての血縁関係が取り入れられたということである。だからもしオバからメイに祭祀権が移った場合は、オバとメイが「親―子」とされたであろう。溝口睦子の『アマテラスの誕生』によれば、古代氏族の系譜は「擬制系譜なのである」(p.46)。そもそも日本の場合、親子関係を模した擬制がはなはだ多い(親分―子分、親方―弟子、大家―店子、親会社―子会社)。こうした擬制血縁関係を利用して氏族を拡張していった集団が、蘇我氏とか吉備氏であろう。彼らはホントの意味での血縁集団ではないのである。
さて、この擬制としての血縁関係がクニの統合にも用いられた。古代における「神話」は、現代で言えば「政治思想」に当たる。支配層と被支配層の間には、祭政権が移行するかしないかの壁がありながら、それでも支配層と被支配層の間には「親―子」関係がある、というロジックを作りたかった。そこで先住氏族の祖霊の代わりに渡来人がもたらした人格神を祭ることで、「我々はみな同じ神の子孫である」という方便を用いることにしたのである。
このように、古代において神社は共同体の凝集力の核として機能した。ただし、この時代、豪族が利用した神話は南方系要素の強い神話であって、弥生時代にはまだ天孫降臨神話は存在しなかった。「あれ? 弥生時代に天皇が朝鮮半島からやってきて日本を支配したんじゃなかったの?」
つづきはまた。
あ〜あ、もう稲刈りの時期に入ってしもたがな。イナゴ捕りに行けなかった。せっかくの酒の肴が逃げていく・・・。
さて今日は、前回(オルタナティブ・ビジョンをめぐる権力闘争)の補足をしようと思う。前回、核廃絶の仕組みとして核保有権を設定したらどうか、と書いた。その意図を少し整理してみた。
おもしろきこともなき世をおもしろくするものが世の中にあるとすれば、それは新しい発想に触れることではなかろうか。どうも国際政治の世界では、残念ながら日本からおもしろいアイデアが発信されるということは少ないようだ。日本外交は概して機会主義的であり現状追認的だ。少し日本は真面目すぎやしないだろうか。サルコジ大統領などはポンポンアイデアを出してくるのに。
そこで、核保有権の話である。どんな国にも自衛権があるように、どんな国にも核保有権を認めることを吾輩はここに提案する。ただし、地球全体で保有できる核兵器数の上限は決めておく(核兵器はすべて登録する)。核兵器を保有したい国は核保有権を買い取り、核兵器が必要ない国は核保有権を売ればよい。そして核軍縮を推進する意思のある国は他国から核保有権を買い取って償却する。こうして核軍縮を進めていく(これを仮に核保有権制度と呼ぶことにする)。こんなことは実現不可能だと誰しも思うだろう。吾輩も無理だと思う。しかし核保有権制度を提案することの意味は、主に以下の3点にある。
まず第一に、日本の価値観を示すためである。核のない世の中が果たして平和な世の中なのか、疑問がないわけではないが(しかし少なくとも世界の核兵器がゼロになることは相対的に日本に有利であろう)、日本が核兵器のない世の中を希望しており、それが地球全体のビジョンとなることを願っていることを示すために、核保有権制度を提案するのである。世界には日本の核武装を過度に警戒する人々がいるし、そういう人たちは核保有権制度を日本の核保有に道を開くものだと非難するだろう。しかしそうであるかどうかは、この制度を議論する中ではっきりしていくことだろう。大切なのは、提案し、議論し、その中で日本の意思を世界に発信していくことである。これは、そのためのいい機会となろう。
第二に、日本の発言力向上のためである。現在の制度下では、日本が100万べん「核のない世の中を!」と叫んでみたところで何も変わらない。核軍縮は、既得権を持つ核保有国の間で決めることであって、非保有国には何の発言力もない。しかし、「核保有権制度を作って非保有国にも保有権を与えることにしよう」と提案すれば、非保有国はこの制度に興味を示すであろう。そうなれば日本は、核保有権は有するが核を持たない国々(つまり現在の非保有国)をとりまとめて、実際の核保有国に核軍縮の圧力を加えることができる。つまり、核保有権は、今まで核軍縮に何の発言力もなかった非保有国に発言権を与えてくれるのである(要するに五大国の特権を認めないということである)。日本はそのリーダー役になれる。
そして第三に、ならず者国家を制度内に組み込むことができるということ。一般的に見れば、「核保有権など与えたら世界中に核が拡散する」と懸念されよう。しかし核保有権制度は従来の発想を逆転させた制度なのである。非保有国が核保有権を得たからといって、同時に核開発能力が得られるわけでもないし、核保有権を売ってくれる国はあっても、核兵器を売ってくれる国はないであろう。従って、この制度を積極的に利用したいと考えるのは北朝鮮やイランなど本気で核を保有したがっている国家である。彼らにとって、この制度は核保有を正当化できる絶好の制度だからだ。そこで、発想の逆転なのである。現状では、事実上、北朝鮮は核を持っている。しかしその内実は我々にはまったくわからない。そいう状態であるよりも、むしろ彼らが核を保有することの正当性を認めてやり、それと引き換えに核保有権制度の管理下に入ることを承知させるのである。五大国のみは核兵器を保有してよい、などという欺瞞的なNPT体制だからこそ、ならず者国家の核保有を非難する言葉が無力なのである(しかも、核軍縮を条件としてこの特権が認められているのに、五大国はそれを守っていないのだから、何をか言わんやである。ましてや、「インドは核を持ってもいいが北朝鮮はダメだ」などとアメリカが決めることではないはずだ)。
結局、核保有権制度が核を拡散させる制度になるか縮小させる制度になるかは、制度設計次第であろう。日本の立場としては、この制度の中に、いかにこっそりと日本の価値と利益を忍び込ませることができるかが勝負である。無論、吾輩にこの“思いつき”を具体化する力はないのだが。
さて今日は、前回(オルタナティブ・ビジョンをめぐる権力闘争)の補足をしようと思う。前回、核廃絶の仕組みとして核保有権を設定したらどうか、と書いた。その意図を少し整理してみた。
おもしろきこともなき世をおもしろくするものが世の中にあるとすれば、それは新しい発想に触れることではなかろうか。どうも国際政治の世界では、残念ながら日本からおもしろいアイデアが発信されるということは少ないようだ。日本外交は概して機会主義的であり現状追認的だ。少し日本は真面目すぎやしないだろうか。サルコジ大統領などはポンポンアイデアを出してくるのに。
そこで、核保有権の話である。どんな国にも自衛権があるように、どんな国にも核保有権を認めることを吾輩はここに提案する。ただし、地球全体で保有できる核兵器数の上限は決めておく(核兵器はすべて登録する)。核兵器を保有したい国は核保有権を買い取り、核兵器が必要ない国は核保有権を売ればよい。そして核軍縮を推進する意思のある国は他国から核保有権を買い取って償却する。こうして核軍縮を進めていく(これを仮に核保有権制度と呼ぶことにする)。こんなことは実現不可能だと誰しも思うだろう。吾輩も無理だと思う。しかし核保有権制度を提案することの意味は、主に以下の3点にある。
まず第一に、日本の価値観を示すためである。核のない世の中が果たして平和な世の中なのか、疑問がないわけではないが(しかし少なくとも世界の核兵器がゼロになることは相対的に日本に有利であろう)、日本が核兵器のない世の中を希望しており、それが地球全体のビジョンとなることを願っていることを示すために、核保有権制度を提案するのである。世界には日本の核武装を過度に警戒する人々がいるし、そういう人たちは核保有権制度を日本の核保有に道を開くものだと非難するだろう。しかしそうであるかどうかは、この制度を議論する中ではっきりしていくことだろう。大切なのは、提案し、議論し、その中で日本の意思を世界に発信していくことである。これは、そのためのいい機会となろう。
第二に、日本の発言力向上のためである。現在の制度下では、日本が100万べん「核のない世の中を!」と叫んでみたところで何も変わらない。核軍縮は、既得権を持つ核保有国の間で決めることであって、非保有国には何の発言力もない。しかし、「核保有権制度を作って非保有国にも保有権を与えることにしよう」と提案すれば、非保有国はこの制度に興味を示すであろう。そうなれば日本は、核保有権は有するが核を持たない国々(つまり現在の非保有国)をとりまとめて、実際の核保有国に核軍縮の圧力を加えることができる。つまり、核保有権は、今まで核軍縮に何の発言力もなかった非保有国に発言権を与えてくれるのである(要するに五大国の特権を認めないということである)。日本はそのリーダー役になれる。
そして第三に、ならず者国家を制度内に組み込むことができるということ。一般的に見れば、「核保有権など与えたら世界中に核が拡散する」と懸念されよう。しかし核保有権制度は従来の発想を逆転させた制度なのである。非保有国が核保有権を得たからといって、同時に核開発能力が得られるわけでもないし、核保有権を売ってくれる国はあっても、核兵器を売ってくれる国はないであろう。従って、この制度を積極的に利用したいと考えるのは北朝鮮やイランなど本気で核を保有したがっている国家である。彼らにとって、この制度は核保有を正当化できる絶好の制度だからだ。そこで、発想の逆転なのである。現状では、事実上、北朝鮮は核を持っている。しかしその内実は我々にはまったくわからない。そいう状態であるよりも、むしろ彼らが核を保有することの正当性を認めてやり、それと引き換えに核保有権制度の管理下に入ることを承知させるのである。五大国のみは核兵器を保有してよい、などという欺瞞的なNPT体制だからこそ、ならず者国家の核保有を非難する言葉が無力なのである(しかも、核軍縮を条件としてこの特権が認められているのに、五大国はそれを守っていないのだから、何をか言わんやである。ましてや、「インドは核を持ってもいいが北朝鮮はダメだ」などとアメリカが決めることではないはずだ)。
結局、核保有権制度が核を拡散させる制度になるか縮小させる制度になるかは、制度設計次第であろう。日本の立場としては、この制度の中に、いかにこっそりと日本の価値と利益を忍び込ませることができるかが勝負である。無論、吾輩にこの“思いつき”を具体化する力はないのだが。
山中優先生のブログ(山中優の教育・研究随想録『経済産業省「オルタナティブ・ビジョン研究会」』)で、経済産業省が経済社会政策のオルタナティブ・ビジョンを求めていることを知った。
簡単に言うと、昨年の「金融危機を契機として、経済的価値より高次の価値から社会的な課題の解決も含め議論する動きが欧米を中心に活発化している。そこで、経済成長のみならず、社会的閉塞感や共同体意識の崩壊などに対し、いかなる社会的・道徳的価値観から対処に臨むべきか、検討を進める必要がある」(「仕様書」より)ということらしい。
実は昨年の暮、吾輩は、『今年を振り返って』というエントリで、2009年以降は経済的合理性よりも倫理や道徳的価値が問われる時代になるのではないかという感想を書いたが、あながち間違った予想でもなかったようだ。とはいえ、具体的なオルタナティブ・ビジョンをイメージできているわけではない。地球規模で言えば、やはり「環境」に価値が置かれる世の中になるのであろうか。
環境重視社会とは言っても、左翼的で平和的な「自然保護」のイメージではなく、あくまで「環境」の名の下に国際社会が熾烈な駆け引きを行う世の中になるのだろう(というか、既になりつつある)。ちょうど第一次大戦後、「平和」の名の下に国際間で権力政治が行われたように。戦前の日本のように、ここを見誤ってはならない。もしかすると、価値というものも経路依存性があるのかもしれない。一旦方向性ができてしまうと、それに従わなくてはならなくなる。従って、早い段階から日本も価値創出に関わっておく必要があろう。
信長の時代は、それまでガラクタだった(?)茶器が、とんでもない価値を有するようになった。政治が経済的な価値を創出できるという点で、政治は経済より優位に立てる。今なら排出権ビジネスがそれに相当しようか。この排出権と同じような仕組みを核廃絶のための制度に使えないだろうか。例えばまず初めに地球全体で保有できる核兵器の総数を決めてしまう。そしてそれを保有権という形で各国に割り当てる。アメリカ100、中国50、日本10、みたいな感じで。それを上回る核兵器は保有できない。核兵器を保有していない国は、保有権を売ることができる。また、株式を自社株償却するように、保有権を償却することもできる(償却した見返りに排出権をもらえるとかリターンを与える)、こうして地球全体の核兵器総数を減らしていく。
世界で最も早くからエネルギー効率を最大化して地球温暖化問題に貢献してきた日本が、どういうわけか今、各国から努力不足を指摘されてしまうという国際間での駆け引きの下手さ加減を挽回するには、環境問題と核兵器問題を絡ませて、地球規模での新たなビジョンを提示してみせるのも一つの方法ではないかと思う。散々核実験をして地球環境を破壊してきた国々が、環境問題で大きな口を利けないようにしておかねばならない。ここで出遅れると、第一次大戦後のように、米中本位の平和主義が確立されてしまうことになる。そうなれば、経路依存性によって、日本は米中に従わなくてはならなくなるだろう。
簡単に言うと、昨年の「金融危機を契機として、経済的価値より高次の価値から社会的な課題の解決も含め議論する動きが欧米を中心に活発化している。そこで、経済成長のみならず、社会的閉塞感や共同体意識の崩壊などに対し、いかなる社会的・道徳的価値観から対処に臨むべきか、検討を進める必要がある」(「仕様書」より)ということらしい。
実は昨年の暮、吾輩は、『今年を振り返って』というエントリで、2009年以降は経済的合理性よりも倫理や道徳的価値が問われる時代になるのではないかという感想を書いたが、あながち間違った予想でもなかったようだ。とはいえ、具体的なオルタナティブ・ビジョンをイメージできているわけではない。地球規模で言えば、やはり「環境」に価値が置かれる世の中になるのであろうか。
環境重視社会とは言っても、左翼的で平和的な「自然保護」のイメージではなく、あくまで「環境」の名の下に国際社会が熾烈な駆け引きを行う世の中になるのだろう(というか、既になりつつある)。ちょうど第一次大戦後、「平和」の名の下に国際間で権力政治が行われたように。戦前の日本のように、ここを見誤ってはならない。もしかすると、価値というものも経路依存性があるのかもしれない。一旦方向性ができてしまうと、それに従わなくてはならなくなる。従って、早い段階から日本も価値創出に関わっておく必要があろう。
信長の時代は、それまでガラクタだった(?)茶器が、とんでもない価値を有するようになった。政治が経済的な価値を創出できるという点で、政治は経済より優位に立てる。今なら排出権ビジネスがそれに相当しようか。この排出権と同じような仕組みを核廃絶のための制度に使えないだろうか。例えばまず初めに地球全体で保有できる核兵器の総数を決めてしまう。そしてそれを保有権という形で各国に割り当てる。アメリカ100、中国50、日本10、みたいな感じで。それを上回る核兵器は保有できない。核兵器を保有していない国は、保有権を売ることができる。また、株式を自社株償却するように、保有権を償却することもできる(償却した見返りに排出権をもらえるとかリターンを与える)、こうして地球全体の核兵器総数を減らしていく。
世界で最も早くからエネルギー効率を最大化して地球温暖化問題に貢献してきた日本が、どういうわけか今、各国から努力不足を指摘されてしまうという国際間での駆け引きの下手さ加減を挽回するには、環境問題と核兵器問題を絡ませて、地球規模での新たなビジョンを提示してみせるのも一つの方法ではないかと思う。散々核実験をして地球環境を破壊してきた国々が、環境問題で大きな口を利けないようにしておかねばならない。ここで出遅れると、第一次大戦後のように、米中本位の平和主義が確立されてしまうことになる。そうなれば、経路依存性によって、日本は米中に従わなくてはならなくなるだろう。