今日は前回の「上達の方法論」の続きである。前回は、上達のステップを
(1)自己診断(目標と己の弱点の自覚)
(2)処方(トレーニングメニューの作成)
(3)トレーニングの実行
(4)反省(処方は正しかったのか)
の4つに分解し、(1)の自己診断は「事実の世界」、(2)の処方は「可能性の世界」であることを指摘した。
ところでサルの社会は千年前も今も変化することがない。ヒトの社会は変化するのになぜサルの社会は変化しないのか。ヒトと同じではないにしろ、サルも現実を認識していることは間違いない。ヒトはヒトなりに、サルはサルなりに現実世界を分節して眺めている。ところがサルは言葉を持たない。そのため可能性の世界を開くことができないのである(※)。サルは決して自らトレーニングをしない。「筋トレをしてパワーを付けたらボス猿をぶん殴ってやろう」とは考えないのである。だからサル社会は変化しない。
(※)ヒトは言葉を操作することによって、(実現できるかどうかは別として)論理的に可能な世界を考えることができる。
タテ社会論で有名な中根千枝先生の『社会人類学』(講談社学術文庫)の中におもしろい記述がある。我々の目から見ると同じように見える未開社会にも実は2通りあって、(A)開かれた社会と、(B)開かれていない社会があるという。開かれた社会に住む未開民族は、自分たちが所属する社会の外にも別の社会が存在することを十分認識している。反対に、開かれていない社会に属する未開民族は、「自分たちの社会=世界のすべて」であって、他に別な社会があるという認識がないのだそうである。そのような社会に外人である我々が踏み込むと、「降ってわいたような感じで受けとめ」るらしい。
自分たちの外に別の社会があると認識できるということは、「可能性の世界」を想像し得るということである。他方、開かれていない社会に属する未開民族は、失礼ながらサル社会に近い。サル近似社会からヒト社会に発展するためには、「可能性の世界」を想像できる人間、すなわち知識人(知識層)が必要なのである。そしてそれはたぶん現代社会でも変わらない。組織においてはブレーンとかスタッフ(参謀)とか呼ばれる人たちが、政策を考え作戦を立てる。要するに、世の中(あるいは組織)を変えるのは思想であり、抽象的な思考能力を持つ人たちこそがその思想を作り出すのである。逆に想像力の乏しい人は、たぶん何事であっても上達することが不得手であろう。
なんだかナポレオン・ヒルみたいになってしまった。読んだことないけど(笑)。
(1)自己診断(目標と己の弱点の自覚)
(2)処方(トレーニングメニューの作成)
(3)トレーニングの実行
(4)反省(処方は正しかったのか)
の4つに分解し、(1)の自己診断は「事実の世界」、(2)の処方は「可能性の世界」であることを指摘した。
ところでサルの社会は千年前も今も変化することがない。ヒトの社会は変化するのになぜサルの社会は変化しないのか。ヒトと同じではないにしろ、サルも現実を認識していることは間違いない。ヒトはヒトなりに、サルはサルなりに現実世界を分節して眺めている。ところがサルは言葉を持たない。そのため可能性の世界を開くことができないのである(※)。サルは決して自らトレーニングをしない。「筋トレをしてパワーを付けたらボス猿をぶん殴ってやろう」とは考えないのである。だからサル社会は変化しない。
(※)ヒトは言葉を操作することによって、(実現できるかどうかは別として)論理的に可能な世界を考えることができる。
タテ社会論で有名な中根千枝先生の『社会人類学』(講談社学術文庫)の中におもしろい記述がある。我々の目から見ると同じように見える未開社会にも実は2通りあって、(A)開かれた社会と、(B)開かれていない社会があるという。開かれた社会に住む未開民族は、自分たちが所属する社会の外にも別の社会が存在することを十分認識している。反対に、開かれていない社会に属する未開民族は、「自分たちの社会=世界のすべて」であって、他に別な社会があるという認識がないのだそうである。そのような社会に外人である我々が踏み込むと、「降ってわいたような感じで受けとめ」るらしい。
自分たちの外に別の社会があると認識できるということは、「可能性の世界」を想像し得るということである。他方、開かれていない社会に属する未開民族は、失礼ながらサル社会に近い。サル近似社会からヒト社会に発展するためには、「可能性の世界」を想像できる人間、すなわち知識人(知識層)が必要なのである。そしてそれはたぶん現代社会でも変わらない。組織においてはブレーンとかスタッフ(参謀)とか呼ばれる人たちが、政策を考え作戦を立てる。要するに、世の中(あるいは組織)を変えるのは思想であり、抽象的な思考能力を持つ人たちこそがその思想を作り出すのである。逆に想像力の乏しい人は、たぶん何事であっても上達することが不得手であろう。
なんだかナポレオン・ヒルみたいになってしまった。読んだことないけど(笑)。
慢性的な「肩こり」に悩まされてもう2年くらいになるのだけれど、ようやく少し光明が見えてきた。というのも、いつもは首まわりをストレッチをしたり、ツボを押したり(どこがツボなのかは無論知らないが)していたのを、マッサージに切り替えてみたのである。すると、首がラクになるのをハッキリ体感できたのだ。特別なことはしていない。凝っている筋肉を1箇所につき数十秒ほどマッサージしてみただけである。もちろんこれで完全に痛みが消えたわけではないが、ストレッチやツボなんかよりもはるかに効果がある。なんでいままで「マッサージ」に気づかなかったかな〜、2年間も。バカバカ。そんなわけで、ついうれしくなってしまい、ちとマッサージをやりすぎてしまったようだ。首から肩にかけて筋肉がヒリヒリする。ま、それはともかく、バカにできないもんだね、按摩も。これがヌカ喜びにならないことを祈るばかりである。
ところで最近、「体感する」ということは実は大切なことなんだと思うようになった。例えば野球やゴルフのようなスポーツにせよ、ピアノやギターのような楽器の習得にせよ、あるいは外国語学習や資格取得のような学習にせよ、上達するには「体感」が欠かせないんじゃないかと思い始めたからである。何一つ人に秀でるものがない吾輩がこんなことを言うのもおこがましい限りであるが、上達のステップを簡単に言うと、
(1)自己診断(目標と己の弱点の自覚)
(2)処方(トレーニングメニューの作成)
(3)トレーニングの実行
(4)反省(処方は正しかったのか)
というサイクルの繰り返しになるんじゃないかと思う。この際、(3)の過程で、「自分は上達している」と体感できればその方法を続ければよいし、それが感じられなければトレーニングメニューを変える必要がある。つまり体感できるかどうかが、(3)から(4)のステップに進むべきかどうかの判断基準になるということである。もっとも、現実には、特にスポーツの場合、上達を体感するのはかなり難しい(反対に語学学習などは体感しやすい)と思うけれども(※)、あくまでこれは上達のモデルということである。
(※)英語も体育も成績が“2”だった吾輩に突っ込まないでね。そのかし数学は“5”だったんだから。
で、ここでまたまた話が飛ぶのだけれど、文章を書く際は、なにが「事実」で、なにが「意見」か、分かるように書きなさい、ということがよく指摘される。これを先の「上達の方法論」に当てはめると、(1)の自己診断は、現実を認識し分析するという意味で「事実の世界」である。これに対して(2)の処方は、可能性を開くために「〜すべきである」という「可能性の世界」である。英文法的に言えば、「助動詞の世界」「仮定法の世界」とでも言えるであろうか。
理想主義者は「可能性の世界」の住人である。彼らは「〜しなければならない」「〜であるべきだ」という表現を好む。
さて、長くなったので、この続きはまたいつか(これも企画倒れになりそうだな・笑)。
◆本日のエクササイズ
自宅〜泉ヶ岳登山口〜自宅:53.0km

暑さのためか、完全にバテた。予定を変更して引き返した。毎年走っているコースなのに。
ところで最近、「体感する」ということは実は大切なことなんだと思うようになった。例えば野球やゴルフのようなスポーツにせよ、ピアノやギターのような楽器の習得にせよ、あるいは外国語学習や資格取得のような学習にせよ、上達するには「体感」が欠かせないんじゃないかと思い始めたからである。何一つ人に秀でるものがない吾輩がこんなことを言うのもおこがましい限りであるが、上達のステップを簡単に言うと、
(1)自己診断(目標と己の弱点の自覚)
(2)処方(トレーニングメニューの作成)
(3)トレーニングの実行
(4)反省(処方は正しかったのか)
というサイクルの繰り返しになるんじゃないかと思う。この際、(3)の過程で、「自分は上達している」と体感できればその方法を続ければよいし、それが感じられなければトレーニングメニューを変える必要がある。つまり体感できるかどうかが、(3)から(4)のステップに進むべきかどうかの判断基準になるということである。もっとも、現実には、特にスポーツの場合、上達を体感するのはかなり難しい(反対に語学学習などは体感しやすい)と思うけれども(※)、あくまでこれは上達のモデルということである。
(※)英語も体育も成績が“2”だった吾輩に突っ込まないでね。そのかし数学は“5”だったんだから。
で、ここでまたまた話が飛ぶのだけれど、文章を書く際は、なにが「事実」で、なにが「意見」か、分かるように書きなさい、ということがよく指摘される。これを先の「上達の方法論」に当てはめると、(1)の自己診断は、現実を認識し分析するという意味で「事実の世界」である。これに対して(2)の処方は、可能性を開くために「〜すべきである」という「可能性の世界」である。英文法的に言えば、「助動詞の世界」「仮定法の世界」とでも言えるであろうか。
理想主義者は「可能性の世界」の住人である。彼らは「〜しなければならない」「〜であるべきだ」という表現を好む。
さて、長くなったので、この続きはまたいつか(これも企画倒れになりそうだな・笑)。
◆本日のエクササイズ
自宅〜泉ヶ岳登山口〜自宅:53.0km

暑さのためか、完全にバテた。予定を変更して引き返した。毎年走っているコースなのに。
北朝鮮の国内情勢が風雲急を告げつつあるようですな。後継者と目される青大将様(正雲)が国防委員長代行になったとか。将軍様はマジで年内にお隠れあそばしそうな気配だ。道理でこのところ北朝鮮の動きが慌しいわけだ。
後継者とされる青大将様はまだ20代だとか。人の使い方も知らないこんな若造がいきなりトップに立ったら暴走するかもね。イメージ的には、源頼朝が死んで若くして将軍職を継いだ頼家あたりがピッタリかな。独裁的に振舞って側近たちの反感を買い、幽閉されて殺されると。そしてここから本当の権力争いが始まる。誰が北朝鮮の北条氏になるか。実に興味深い(笑)。
吾輩が思うに、北朝鮮内での権力抗争で最後に漁夫の利を得るのは中国を味方につけた金正男じゃないかな。ただし正男が権力の座に着いたとしても、これは単純な世襲とは違う。血統的には紛れもない3代目ではあるものの、正男は正雲から政権を簒奪した形になるか、もしくは正雲が誰かに奪われた政権を取り戻すという形になり、どちらにしても王朝の一時断絶のイメージが付きまとうことになる。
しかしこれは正男の望むところであって、正男は中国の協力のもとに金王朝の脱権力化を図るのではないかな。早い話が、金王家が独占していた権力と財産を国家に返還し、北朝鮮の体制を家産独裁制から中国式の官僚独裁制へと改革を進めるものと思う。北朝鮮の経済はもともと国家と社会が分裂した形なので、改革を進めてもソ連崩壊後にみられたような社会の混乱はないであろう。その意味で改革は比較的スムーズに(社会からに反発なしに)進むものと思われる。そして改革の暁には、正男は権威だけを持つ王様となり政界から退くであろう。
日本は拉致問題と引き換えに経済協力を行い、アメリカは核放棄と引き換えに国交正常化を行う。韓国との統一は棚上げにする。これなら中国、日本、アメリカ、韓国、みんなが納得する。正雲のような若造と違って、正男の頭の中には大人の解決法があるのではないだろうか。最もそれ故に暗殺の危険も付きまとうのであるが。
後継者とされる青大将様はまだ20代だとか。人の使い方も知らないこんな若造がいきなりトップに立ったら暴走するかもね。イメージ的には、源頼朝が死んで若くして将軍職を継いだ頼家あたりがピッタリかな。独裁的に振舞って側近たちの反感を買い、幽閉されて殺されると。そしてここから本当の権力争いが始まる。誰が北朝鮮の北条氏になるか。実に興味深い(笑)。
吾輩が思うに、北朝鮮内での権力抗争で最後に漁夫の利を得るのは中国を味方につけた金正男じゃないかな。ただし正男が権力の座に着いたとしても、これは単純な世襲とは違う。血統的には紛れもない3代目ではあるものの、正男は正雲から政権を簒奪した形になるか、もしくは正雲が誰かに奪われた政権を取り戻すという形になり、どちらにしても王朝の一時断絶のイメージが付きまとうことになる。
しかしこれは正男の望むところであって、正男は中国の協力のもとに金王朝の脱権力化を図るのではないかな。早い話が、金王家が独占していた権力と財産を国家に返還し、北朝鮮の体制を家産独裁制から中国式の官僚独裁制へと改革を進めるものと思う。北朝鮮の経済はもともと国家と社会が分裂した形なので、改革を進めてもソ連崩壊後にみられたような社会の混乱はないであろう。その意味で改革は比較的スムーズに(社会からに反発なしに)進むものと思われる。そして改革の暁には、正男は権威だけを持つ王様となり政界から退くであろう。
日本は拉致問題と引き換えに経済協力を行い、アメリカは核放棄と引き換えに国交正常化を行う。韓国との統一は棚上げにする。これなら中国、日本、アメリカ、韓国、みんなが納得する。正雲のような若造と違って、正男の頭の中には大人の解決法があるのではないだろうか。最もそれ故に暗殺の危険も付きまとうのであるが。
ようやく安保理の対北・制裁決議案が採択されたけれども、すっかり気の抜けたサイダーを出されたような気分で、何と言っていいのやら。前回2006年に比べれば随分強化されたとはいえ、貨物検査の義務化が中国の反対で見送られたため、またしてもザルになってしまった。実効性が疑わしい制裁決議に北朝鮮は反発しながらも、内心喜んでいるのではないだろうか。なにしろこれで一層、核開発する口実ができたわけだから。
現実的ではないだろうが、吾輩はこの際、多国籍軍を組んで黄海あたりに軍艦をずらりと並べ特別演習でもやってみたらいいと思う。急におとなしくなると思うよ、北朝鮮は。彼らはこちら側に開戦の意思がまったくないということを見透かしている。だからエスカレーションを続けられるのだ。従って、こちら側が戦争も辞さずという態度を見せなければ、北朝鮮を止めることはできまい。幸い中国が不況になれば大量の失業者が出てくるので、雇用確保のためにも、また、失業者の不満を北京政府からそらすためにも、朝鮮出兵は有効な選択肢となりうる。
ここでちょっと19世紀前半の日本を思い出してもらいたいのだが、徳川幕府はこの頃から日本近海に出没し始めた外国船に対して異国船打払令を出した。1825年のことである。我々は一般にペリーの黒船出現が日本の対外意識の覚醒を促したかのようなイメージを抱きがちであるが、外国に対する危機意識は既に18世紀末の日本に存在していた(林子平の『海国兵談』が出版されたのが1791年である)。19世紀の初頭にはロシアが択捉・樺太を襲撃する事件が起きており、日露間の緊張が高まったが、ヨーロッパでナポレオン戦争が起こったため、ロシア船は極東から姿を消した。
このため日本では、ヨーロッパの国々がわざわざ地球の裏側までやってきて戦争を仕掛けるはずがないという判断が優勢になり、1825年に異国船打払令を出したのである。異国船打払令の意図は、日本の断固とした鎖国の意思を外国に伝えることにあって、その背後には、たとえ日本側からの砲撃によって外国との間に紛争が生じたとしても、それが戦争に発展する恐れはないという判断があったのである。開戦が即敗戦を意味することは、当時の幕府の役人にはわかっていた。しかし開戦になる恐れはないから、遠慮なく打ち払え、ということだったのだ。今の北朝鮮と似ていないか。(ちなみに幕末日本では対外政策の対立が徳川将軍の後継者問題とリンクして政治対立を生んだが、北朝鮮でも対外強硬路線と世襲問題はリンクしているようだ)
この打払令が撤廃されるのが1842年のことで、この年はアヘン戦争が終結した年だ。余談ながら韓国の学者の中には、このときの戦況に関する情報の精度が、日韓の近代化の分かれ道となったと考えている者もいるようだ。すなわち、李朝の朝鮮人官僚は中国人官僚からガセネタを掴まされてしまったが、たまたま当時の日本人は正確な情報を掴んでいたため事の重大さを正しく判断でき、そのため近代化に一歩先んじることができたというのである。しかしながらそれは、全体から見ればほんの小さな部分であって、当時の日本人はアヘン戦争以前から西洋の動向を凝視していたのである(※)。だからこそ当時の日本人はアヘン戦争に驚くことができた。
(※)この点で、彼我の軍事力の差も知らず、ただ闇雲に外国商船や軍艦を砲撃した李氏朝鮮の大院君政権(1863〜1873)と、異国船打払令を出した1825年の徳川幕府とでは、既に国際情勢に対する情報量とその理解において雲泥の差があったのである。
ここで注意すべきは、日本人が驚いたのはアヘン戦争の結果よりもむしろ、アヘン戦争が起こったこと自体に驚いたという点である。なぜなら、先に述べたとおり、ヨーロッパ人が地球の裏側までやってきて戦争を仕掛けるはずはないと考えていたから。その驚きを今風に表現するなら、「あいつら、マジだったのかよ!」ということになる。そこであわてて幕府は異国船打払令を撤回した。幕府の役人や知識人たちは、対外政策を鎖国徹底から避戦優先に切り替えたのである。
今、北朝鮮を巡る情勢では、北朝鮮よりむしろ周辺諸国のほうが避戦を強調している。曰く、「臨検の義務化が偶発的な戦争を誘発しかねない」と。しかし、幕末の日本において、西洋諸国が融和的な態度をとり続けていたとしたら、果たして日本は自発的に開国しただろうか。日本が開国へと政策を変化させていったのは、西洋の軍事力に対抗するためには彼らの技術を採り入れなければならないと判断したからであって、そもそも西洋がその軍事力を日本に行使する気配をみせなければ、幕府の役人たちは開国の必要性を認めなかったであろう。それは江戸時代初期に証明済みである。
幕末というと一般に1853年以降を指すので、どうしてもペリー以降の動乱期ばかりがスポットライトを浴びやすいが、日本の対外政策が極東アジアを中心としたものから西洋諸国を中心としたものへと変化したのは既に19世紀前半のことである。この時代の幕府の対外政策の推移や、開国過程、知識人の対外論の変化を研究することは、アメリカ的な視点から北朝鮮やアフガニスタンを眺めるのではなく、内在的な視点を提供するという点において、今の我々に何らかの示唆を与えてくれるものと思われる。
【参考書】三谷博『明治維新とナショナリズム―幕末の外交と政治変動』(1997)
◆本日のエクササイズ
自宅〜村田〜釜房ダム〜自宅:52.6km

うわ〜、勾配10%だー!
現実的ではないだろうが、吾輩はこの際、多国籍軍を組んで黄海あたりに軍艦をずらりと並べ特別演習でもやってみたらいいと思う。急におとなしくなると思うよ、北朝鮮は。彼らはこちら側に開戦の意思がまったくないということを見透かしている。だからエスカレーションを続けられるのだ。従って、こちら側が戦争も辞さずという態度を見せなければ、北朝鮮を止めることはできまい。幸い中国が不況になれば大量の失業者が出てくるので、雇用確保のためにも、また、失業者の不満を北京政府からそらすためにも、朝鮮出兵は有効な選択肢となりうる。
ここでちょっと19世紀前半の日本を思い出してもらいたいのだが、徳川幕府はこの頃から日本近海に出没し始めた外国船に対して異国船打払令を出した。1825年のことである。我々は一般にペリーの黒船出現が日本の対外意識の覚醒を促したかのようなイメージを抱きがちであるが、外国に対する危機意識は既に18世紀末の日本に存在していた(林子平の『海国兵談』が出版されたのが1791年である)。19世紀の初頭にはロシアが択捉・樺太を襲撃する事件が起きており、日露間の緊張が高まったが、ヨーロッパでナポレオン戦争が起こったため、ロシア船は極東から姿を消した。
このため日本では、ヨーロッパの国々がわざわざ地球の裏側までやってきて戦争を仕掛けるはずがないという判断が優勢になり、1825年に異国船打払令を出したのである。異国船打払令の意図は、日本の断固とした鎖国の意思を外国に伝えることにあって、その背後には、たとえ日本側からの砲撃によって外国との間に紛争が生じたとしても、それが戦争に発展する恐れはないという判断があったのである。開戦が即敗戦を意味することは、当時の幕府の役人にはわかっていた。しかし開戦になる恐れはないから、遠慮なく打ち払え、ということだったのだ。今の北朝鮮と似ていないか。(ちなみに幕末日本では対外政策の対立が徳川将軍の後継者問題とリンクして政治対立を生んだが、北朝鮮でも対外強硬路線と世襲問題はリンクしているようだ)
この打払令が撤廃されるのが1842年のことで、この年はアヘン戦争が終結した年だ。余談ながら韓国の学者の中には、このときの戦況に関する情報の精度が、日韓の近代化の分かれ道となったと考えている者もいるようだ。すなわち、李朝の朝鮮人官僚は中国人官僚からガセネタを掴まされてしまったが、たまたま当時の日本人は正確な情報を掴んでいたため事の重大さを正しく判断でき、そのため近代化に一歩先んじることができたというのである。しかしながらそれは、全体から見ればほんの小さな部分であって、当時の日本人はアヘン戦争以前から西洋の動向を凝視していたのである(※)。だからこそ当時の日本人はアヘン戦争に驚くことができた。
(※)この点で、彼我の軍事力の差も知らず、ただ闇雲に外国商船や軍艦を砲撃した李氏朝鮮の大院君政権(1863〜1873)と、異国船打払令を出した1825年の徳川幕府とでは、既に国際情勢に対する情報量とその理解において雲泥の差があったのである。
ここで注意すべきは、日本人が驚いたのはアヘン戦争の結果よりもむしろ、アヘン戦争が起こったこと自体に驚いたという点である。なぜなら、先に述べたとおり、ヨーロッパ人が地球の裏側までやってきて戦争を仕掛けるはずはないと考えていたから。その驚きを今風に表現するなら、「あいつら、マジだったのかよ!」ということになる。そこであわてて幕府は異国船打払令を撤回した。幕府の役人や知識人たちは、対外政策を鎖国徹底から避戦優先に切り替えたのである。
今、北朝鮮を巡る情勢では、北朝鮮よりむしろ周辺諸国のほうが避戦を強調している。曰く、「臨検の義務化が偶発的な戦争を誘発しかねない」と。しかし、幕末の日本において、西洋諸国が融和的な態度をとり続けていたとしたら、果たして日本は自発的に開国しただろうか。日本が開国へと政策を変化させていったのは、西洋の軍事力に対抗するためには彼らの技術を採り入れなければならないと判断したからであって、そもそも西洋がその軍事力を日本に行使する気配をみせなければ、幕府の役人たちは開国の必要性を認めなかったであろう。それは江戸時代初期に証明済みである。
幕末というと一般に1853年以降を指すので、どうしてもペリー以降の動乱期ばかりがスポットライトを浴びやすいが、日本の対外政策が極東アジアを中心としたものから西洋諸国を中心としたものへと変化したのは既に19世紀前半のことである。この時代の幕府の対外政策の推移や、開国過程、知識人の対外論の変化を研究することは、アメリカ的な視点から北朝鮮やアフガニスタンを眺めるのではなく、内在的な視点を提供するという点において、今の我々に何らかの示唆を与えてくれるものと思われる。
【参考書】三谷博『明治維新とナショナリズム―幕末の外交と政治変動』(1997)
◆本日のエクササイズ
自宅〜村田〜釜房ダム〜自宅:52.6km

うわ〜、勾配10%だー!
このところ北朝鮮の核問題に関する報道に絡んで、金正日の後継者が内定したという報道が増えてきた。それにともない、北朝鮮が核実験をしたのはアメリカとの交渉目的のためではなく、後継者体制作りの一環ではないかという観測が急浮上してきた。北朝鮮の一連のエスカレーションが、脳卒中で倒れた金正日の復活と同時に起こったことを考えれば、この見方は妥当なように思われる。おそらく、生死をさまようほどの経験が、将軍様をして強固な後継者体制作りを急がせたのであろう。
果たして金正雲なる人物が本当に後継者と決定したものであるのかどうか知る由もないが、ここで注意しなければならないことは、北朝鮮は近代国家ではなく古代国家(王朝国家)であるということだ。北朝鮮が核を保有するということは、実質的には金王家が核を保有するということなのである。北朝鮮は金王家の私領なのであり、金王家が北朝鮮を外敵から守るためには核弾頭ミサイルが必要だというのが将軍様の判断なのであろう。同時に、金王家が核弾頭ミサイルを保有することは、国内的には金王家の正当性を一層強固なものにする。金王家は国内経済の再分配権を握ることでその権力を維持しているわけだが、ここに核弾頭ミサイルを保有することでその権力を磐石なものにすることができる。なにしろ外敵から北朝鮮を守れるのは金王家しかないのだから。
しかしここにひとつジレンマがある。北朝鮮の核保有と権力世襲に対して中国が反対していることだ。北朝鮮が、というより金正日が、権力世襲のために核開発を進めれば進めるほど中国との関係が悪化する。北朝鮮の孤立化が進めば、金正日の政策に反発する勢力も出てこよう。つまり後継体制固めのための施策が政権の分裂を促してしまいかねないのである。
中国としては、北朝鮮には安定してもらいたい。しかし核保有や世襲は認められない。他方金王家としては、体制安定のためには王家が世襲によって核と巨大権力を独占する以外にない、中国が北朝鮮の安定を願うなら、核保有と世襲を認めるべきである、という立場だ。中国が北朝鮮の核保有や世襲を非難していることは、北朝鮮内の反対勢力を援護射撃しているようなもので、金正日にとって不愉快極まりないことであろう。いま中国は、国際社会に背を向けてでも北朝鮮の核保有を認めるか、それとも金正日政権を切るか、二者択一の状況に置かれているといえる。
これはまるで中華皇帝に王の代替わりを認めさせようとするに必死な朝鮮王朝のような構図であるが、このきわどいチキンレースに将軍様の脆くなった血管は耐えられまい。おそらく中国は金正日が死亡する日を根気よく待つ気であろう。そしてめでたく死亡した暁には、金王家の支援をやめて、親中派官僚を支援するのではないかと思う。金王家と内廷官僚が北朝鮮を支配する体制(家産独裁制)である限り、北朝鮮が核を放棄することはない。従って中国は、家産独裁制から外廷官僚が支配する官僚独裁制(中国と同じ体制)へとソフトランディングを図るであろう。北朝鮮問題に対しては、これが最も現実的な解ではないだろうか。
果たして金正雲なる人物が本当に後継者と決定したものであるのかどうか知る由もないが、ここで注意しなければならないことは、北朝鮮は近代国家ではなく古代国家(王朝国家)であるということだ。北朝鮮が核を保有するということは、実質的には金王家が核を保有するということなのである。北朝鮮は金王家の私領なのであり、金王家が北朝鮮を外敵から守るためには核弾頭ミサイルが必要だというのが将軍様の判断なのであろう。同時に、金王家が核弾頭ミサイルを保有することは、国内的には金王家の正当性を一層強固なものにする。金王家は国内経済の再分配権を握ることでその権力を維持しているわけだが、ここに核弾頭ミサイルを保有することでその権力を磐石なものにすることができる。なにしろ外敵から北朝鮮を守れるのは金王家しかないのだから。
しかしここにひとつジレンマがある。北朝鮮の核保有と権力世襲に対して中国が反対していることだ。北朝鮮が、というより金正日が、権力世襲のために核開発を進めれば進めるほど中国との関係が悪化する。北朝鮮の孤立化が進めば、金正日の政策に反発する勢力も出てこよう。つまり後継体制固めのための施策が政権の分裂を促してしまいかねないのである。
中国としては、北朝鮮には安定してもらいたい。しかし核保有や世襲は認められない。他方金王家としては、体制安定のためには王家が世襲によって核と巨大権力を独占する以外にない、中国が北朝鮮の安定を願うなら、核保有と世襲を認めるべきである、という立場だ。中国が北朝鮮の核保有や世襲を非難していることは、北朝鮮内の反対勢力を援護射撃しているようなもので、金正日にとって不愉快極まりないことであろう。いま中国は、国際社会に背を向けてでも北朝鮮の核保有を認めるか、それとも金正日政権を切るか、二者択一の状況に置かれているといえる。
これはまるで中華皇帝に王の代替わりを認めさせようとするに必死な朝鮮王朝のような構図であるが、このきわどいチキンレースに将軍様の脆くなった血管は耐えられまい。おそらく中国は金正日が死亡する日を根気よく待つ気であろう。そしてめでたく死亡した暁には、金王家の支援をやめて、親中派官僚を支援するのではないかと思う。金王家と内廷官僚が北朝鮮を支配する体制(家産独裁制)である限り、北朝鮮が核を放棄することはない。従って中国は、家産独裁制から外廷官僚が支配する官僚独裁制(中国と同じ体制)へとソフトランディングを図るであろう。北朝鮮問題に対しては、これが最も現実的な解ではないだろうか。
今日は、最近読んでおもしろかった本について書こうと思う。その本とは、『日本人になった祖先たち』(篠田謙一 2007)である。本書はとてもスリリングな内容なので、同書のテーマである日本人のルーツに関する結末をここで述べることは避けようと思う。そこで本エントリでは、同書を手掛かりとして、日本人のルーツについてではなく、朝鮮/韓国人のルーツについて考えてみることにする。
韓国人は、日本人のルーツに関する話にはとても興味を示す一方、自身のルーツに関してはあまり関心がないようにみえる。朝鮮半島および満州南部あたりに朝鮮/韓国人の直系の祖先(ここでは朝鮮半島に住んでいた古代人を古代コリアンと総称することにする)が古くから住んでいた、というイメージを持っているようだ。彼らが自身のルーツの解明よりも日本人のルーツの解明に興味を示すのは、自分たちの祖先(=弥生人)が日本人の祖先(=縄文人)を支配したという優越感を味わいたいとともに、自らのルーツを探ることは、逆に古代中国人や古代北方民族の影響を受けてきた事実を知ることになりかねないので、そっとしておこうという後ろ向きな姿勢のためであろう。だから彼らのナショナル・ヒストリーでは、“自分たちは古代から一貫した純粋な固定種(単一民族)であった”という前提が、疑問の余地のない事実として語られているのである。
韓国人たちが日本の弥生時代の始まりに対して持つイメージはおよそ次のようなものであろう。「まず、朝鮮半島に住む古代コリアンの一部が戦士集団として日本列島に移住した。彼らは日本側からは渡来人とも弥生人とも呼ばれる存在で、現日本人の基層集団である先住民の縄文人を軍事力で圧倒した。その結果、縄文人の男は殺されるか奴隷となり、女の縄文人は弥生人の妻や性奴隷となった。その混血の子孫が現日本人である」と。そこで『日本人になった祖先たち』のp.183に掲載されているミトコンドリアDNAのデータを見ていただこう。

(図1)『日本人になった祖先たち』(p.183)より。
確かにこのデータによれば、本土日本(現日本人)のDNA構成は、弥生人と縄文人の中間(やや弥生寄り)になっており、現日本人は両者の混血であることを確かに示しているようだ。しかし本エントリのテーマは朝鮮/韓国人のルーツについてであるので、この、韓国人らのお気に入りの仮説がどれほどの妥当性を持つかについては同書を読んでいただくとして、ここではこれ以上言及しない。続いて見ていただきたいのは、『同』p.133のデータである。

(図2)『日本人になった祖先たち』(p.133)より。
これは東アジア各地域集団の現代人のミトコンドリアDNAのデータである。上の3つ(山東・遼寧、韓国、本土日本)のDNA構成がきわめてよく似ていることがわかる。同書では、このデータから、「この地域の集団は、大きくは同じヒトの流れのなかで成立してきたと考えてよいでしょう」(p.135)と推測している。また、同書のp.177によれば、「注目されるのは、朝鮮半島の人たちのなかにも縄文人と同じDNA配列を持つ人がかなりいることです。・・・DNAの相同検索の結果を見る限り、朝鮮半島にも古い時代から縄文人と同じDNAを持つ人が住んでいたと考えるのが自然です」とある。
本書でははっきりとは述べられていないが、日本列島、朝鮮半島、中国東北部あたりにかけて、基層集団としての縄文人(?)が広く分布していたのではないだろうか。倭人もその中の一種族であったかもしれない。それはともかく、問題はここからである。次のデータを見ていただきたい。

(図3)『日本人になった祖先たち』(p.196)より。
こちらは同書p.196に掲載されているデータで、アジア各地域の現代人のY染色体のDNAデータである。みなさんご存知のように、Y染色体は男性だけが持ち、男性だけに継承される。これとは反対に、ミトコンドリアDNAは母から子にのみ継承される。父親のミトコンドリアDNAは子には受け継がれない。以上のことを念頭にもう一度、ミトコンドリアDNAのデータ(図2)とY染色体のDNAデータ(図3)を見比べて欲しい。ミトコンドリアDNAは日本、韓国、中国東北部ともによく似ているのに、Y染色体のほうは各地域バラバラである。しかしY染色体のデータをよく見ると、韓国と中国(北京)が似ていることに気づくはずだ。さらによく見れば、韓国は中国(北京)とモンゴルの中間(やや中国寄り)の構成をしていることがわかる。
繰り返すが、母系統のミトコンドリアDNAは日本、朝鮮、中国東北部でよく似ている。しかし父系統のY染色体DNAは、韓国は日本と異なり、中国とモンゴルの中間の構成をしている。ミトコンドリアDNAが日本、朝鮮、中国東北部でよく似ているを考えれば、古代コリアンと古代日本人のY染色体のDNA構成も似たものであったろうと考えるのが自然だろう(※)。にもかかわらず、現代の韓国人のそれと日本人のそれはまったく異なっている。これは何を意味するのか。
(※)現代の技術では、古代人の遺骨からY染色体DNAを抽出することはできないらしい。
結論を述べればこういうことになる。朝鮮半島の先住民である古代コリアンは、古代中国人や古代北方民族の戦士集団に断続的に侵略され続けた。そしてそのつど古代中国人や古代北方民族が朝鮮半島の支配層になった。支配層のほうが被支配層より子孫を残しやすいのは道理である。そのため韓国では、支配層たる戦士集団(中国とモンゴル)の遺伝子が父系統のY染色体DNAとして受け継がれ、一方、土着の女性の遺伝子は母系統のミトコンドリアDNAとしてそのまま伝え続けられたと考えられる。この2種類のDNAデータは、古代中国人と古代北方民族による朝鮮征服が、古代コリアンの男系遺伝子を消滅させたことを示しているのである。
事実、朝鮮半島にはBC108年からAD313年までの約400年間、漢によって楽浪四郡が設置された。韓国の教科書はこの事実をあたかも些細な出来事であったかのようにわずかに記すだけだが、実に400年間もの長きに渡って支配されたのである。この影響が些細であるはずがない。この間、この地には古代漢人が地方官僚として派遣されてきた。彼らは官僚として、あるいは土着漢人となって、朝鮮半島の土着民(貊族とか穢族とか韓族など)を統治したのである。また、楽浪四郡以前から楽浪四郡以後にかけても、漢人の流入は続き、彼らは土豪化して在地社会を支配した。その証拠にこの地には、古代漢人(王氏、韓氏、張氏、呉氏)らの豪華な墓が数多く残されており、漢代・魏代の遺物・遺構も存在するという(武田幸男編『朝鮮史』より)。さらに時代を下って10世紀以降は、遼(契丹)、女真(金)、元などの北方民族の侵略も断続的に受けてきた。
本書はDNA分析データを手掛かりに日本人のツールを語るものだが、図らずもそのデータは、古代コリアンのDNAが古代中国人と古代北方民族のそれに漸進的に入れ替わっていった来歴をも物語っていたのである。科学とは残酷なものだなぁ。
韓国人は、日本人のルーツに関する話にはとても興味を示す一方、自身のルーツに関してはあまり関心がないようにみえる。朝鮮半島および満州南部あたりに朝鮮/韓国人の直系の祖先(ここでは朝鮮半島に住んでいた古代人を古代コリアンと総称することにする)が古くから住んでいた、というイメージを持っているようだ。彼らが自身のルーツの解明よりも日本人のルーツの解明に興味を示すのは、自分たちの祖先(=弥生人)が日本人の祖先(=縄文人)を支配したという優越感を味わいたいとともに、自らのルーツを探ることは、逆に古代中国人や古代北方民族の影響を受けてきた事実を知ることになりかねないので、そっとしておこうという後ろ向きな姿勢のためであろう。だから彼らのナショナル・ヒストリーでは、“自分たちは古代から一貫した純粋な固定種(単一民族)であった”という前提が、疑問の余地のない事実として語られているのである。
韓国人たちが日本の弥生時代の始まりに対して持つイメージはおよそ次のようなものであろう。「まず、朝鮮半島に住む古代コリアンの一部が戦士集団として日本列島に移住した。彼らは日本側からは渡来人とも弥生人とも呼ばれる存在で、現日本人の基層集団である先住民の縄文人を軍事力で圧倒した。その結果、縄文人の男は殺されるか奴隷となり、女の縄文人は弥生人の妻や性奴隷となった。その混血の子孫が現日本人である」と。そこで『日本人になった祖先たち』のp.183に掲載されているミトコンドリアDNAのデータを見ていただこう。

(図1)『日本人になった祖先たち』(p.183)より。
確かにこのデータによれば、本土日本(現日本人)のDNA構成は、弥生人と縄文人の中間(やや弥生寄り)になっており、現日本人は両者の混血であることを確かに示しているようだ。しかし本エントリのテーマは朝鮮/韓国人のルーツについてであるので、この、韓国人らのお気に入りの仮説がどれほどの妥当性を持つかについては同書を読んでいただくとして、ここではこれ以上言及しない。続いて見ていただきたいのは、『同』p.133のデータである。

(図2)『日本人になった祖先たち』(p.133)より。
これは東アジア各地域集団の現代人のミトコンドリアDNAのデータである。上の3つ(山東・遼寧、韓国、本土日本)のDNA構成がきわめてよく似ていることがわかる。同書では、このデータから、「この地域の集団は、大きくは同じヒトの流れのなかで成立してきたと考えてよいでしょう」(p.135)と推測している。また、同書のp.177によれば、「注目されるのは、朝鮮半島の人たちのなかにも縄文人と同じDNA配列を持つ人がかなりいることです。・・・DNAの相同検索の結果を見る限り、朝鮮半島にも古い時代から縄文人と同じDNAを持つ人が住んでいたと考えるのが自然です」とある。
本書でははっきりとは述べられていないが、日本列島、朝鮮半島、中国東北部あたりにかけて、基層集団としての縄文人(?)が広く分布していたのではないだろうか。倭人もその中の一種族であったかもしれない。それはともかく、問題はここからである。次のデータを見ていただきたい。

(図3)『日本人になった祖先たち』(p.196)より。
こちらは同書p.196に掲載されているデータで、アジア各地域の現代人のY染色体のDNAデータである。みなさんご存知のように、Y染色体は男性だけが持ち、男性だけに継承される。これとは反対に、ミトコンドリアDNAは母から子にのみ継承される。父親のミトコンドリアDNAは子には受け継がれない。以上のことを念頭にもう一度、ミトコンドリアDNAのデータ(図2)とY染色体のDNAデータ(図3)を見比べて欲しい。ミトコンドリアDNAは日本、韓国、中国東北部ともによく似ているのに、Y染色体のほうは各地域バラバラである。しかしY染色体のデータをよく見ると、韓国と中国(北京)が似ていることに気づくはずだ。さらによく見れば、韓国は中国(北京)とモンゴルの中間(やや中国寄り)の構成をしていることがわかる。
繰り返すが、母系統のミトコンドリアDNAは日本、朝鮮、中国東北部でよく似ている。しかし父系統のY染色体DNAは、韓国は日本と異なり、中国とモンゴルの中間の構成をしている。ミトコンドリアDNAが日本、朝鮮、中国東北部でよく似ているを考えれば、古代コリアンと古代日本人のY染色体のDNA構成も似たものであったろうと考えるのが自然だろう(※)。にもかかわらず、現代の韓国人のそれと日本人のそれはまったく異なっている。これは何を意味するのか。
(※)現代の技術では、古代人の遺骨からY染色体DNAを抽出することはできないらしい。
結論を述べればこういうことになる。朝鮮半島の先住民である古代コリアンは、古代中国人や古代北方民族の戦士集団に断続的に侵略され続けた。そしてそのつど古代中国人や古代北方民族が朝鮮半島の支配層になった。支配層のほうが被支配層より子孫を残しやすいのは道理である。そのため韓国では、支配層たる戦士集団(中国とモンゴル)の遺伝子が父系統のY染色体DNAとして受け継がれ、一方、土着の女性の遺伝子は母系統のミトコンドリアDNAとしてそのまま伝え続けられたと考えられる。この2種類のDNAデータは、古代中国人と古代北方民族による朝鮮征服が、古代コリアンの男系遺伝子を消滅させたことを示しているのである。
事実、朝鮮半島にはBC108年からAD313年までの約400年間、漢によって楽浪四郡が設置された。韓国の教科書はこの事実をあたかも些細な出来事であったかのようにわずかに記すだけだが、実に400年間もの長きに渡って支配されたのである。この影響が些細であるはずがない。この間、この地には古代漢人が地方官僚として派遣されてきた。彼らは官僚として、あるいは土着漢人となって、朝鮮半島の土着民(貊族とか穢族とか韓族など)を統治したのである。また、楽浪四郡以前から楽浪四郡以後にかけても、漢人の流入は続き、彼らは土豪化して在地社会を支配した。その証拠にこの地には、古代漢人(王氏、韓氏、張氏、呉氏)らの豪華な墓が数多く残されており、漢代・魏代の遺物・遺構も存在するという(武田幸男編『朝鮮史』より)。さらに時代を下って10世紀以降は、遼(契丹)、女真(金)、元などの北方民族の侵略も断続的に受けてきた。
本書はDNA分析データを手掛かりに日本人のツールを語るものだが、図らずもそのデータは、古代コリアンのDNAが古代中国人と古代北方民族のそれに漸進的に入れ替わっていった来歴をも物語っていたのである。科学とは残酷なものだなぁ。
弥次「いや、驚いたね。韓国の盧武鉉前大統領が自殺したってね」
蛸八「いやいや、まったく。岩の上からダイビングするとはねぇ」
弥次「登山事故を装って自殺するために、わざわざ土曜日を選んだんだろうな」
蛸八「それにしても“不正資金疑惑”が死ぬほどのことかね? 韓国では当たり前のことをしただけじゃないか」
弥次「まあ、確かに韓国では権力者に群がってそのおこぼれにあずかろうってのが、彼らの伝統的な政治文化ではあるがな」
蛸八「じゃあ、なんで死んだんだろ? 死んでも守りたかったものがあったのか?」
弥次「いや、精神的に不安定になってたんだろ。日本で言えば、ちょうどオウム事件のように好奇の目にさらされて、それがプレッシャーになってウツ状態になったんじゃないか?」
蛸八「でも今までの大統領だってみな不正をしてきたし、それが報道されてもきたじゃないか」
弥次「ノムヒョン自身がポピュリストだっただけに、メディアのほうも不正資金疑惑を面白おかしく報道してきたんじゃないの? インターネットがそれに拍車をかけたのかもしれんし」
蛸八「うーむ。ところで韓国はかなり衝撃を受けてるみたいだね」
弥次「今度の事件が現政権批判に向かいかねない」
蛸八「はやくも追悼式で市民と警察が小競り合いになったっていうじゃないか」
弥次「韓国民らしいね(笑)。韓国では司法の独立なんて誰も信じてやしない。韓国の大統領は王様と同じなんだ。大統領の指示次第で警察なんてどうにでもなる。実際ノムヒョンも執政時は司法に権力を行使してきた。だから今回の不正資金疑惑も李大統領の指示だと韓国民は見ているだろう」
蛸八「ノムヒョンを殺したのは李大統領だと」
弥次「検察が不正資金疑惑の捜査を打ち切ることにしたのも、国民からの批判を回避するためだろ」
蛸八「これで有耶無耶になるわけだ」
弥次「法より感情の国だからね。これが韓国社会の分裂を一層深めるか、それとも一時的なもので収まるか、ちょっと興味深いね」
蛸八「ノムヒョンは権力に殺された犠牲者として、“義士”に祭り上げられるかもしれんなぁ」
弥次「まあ、我々にとって韓国の義士などロクなものはいないがな」
蛸八「確かに。死んでこれほど同情を感じない人物も珍しい」
弥次「あれだけ日本の悪口を言ってきたんだから、因果応報ってヤツさね」
さてここで、盧武鉉の死を悼んで弥次が詠む。
「伝統の カネの乱れの 苦しさに 太極の旗は ほころびにけり」
こうきたものだから蛸八も続けて一首詠む。
「宙返り 何度もできる 岩の上 それにつけても カネの欲しさよ」

ノムヒョン・クリフを見上げる人たち。
蛸八「いやいや、まったく。岩の上からダイビングするとはねぇ」
弥次「登山事故を装って自殺するために、わざわざ土曜日を選んだんだろうな」
蛸八「それにしても“不正資金疑惑”が死ぬほどのことかね? 韓国では当たり前のことをしただけじゃないか」
弥次「まあ、確かに韓国では権力者に群がってそのおこぼれにあずかろうってのが、彼らの伝統的な政治文化ではあるがな」
蛸八「じゃあ、なんで死んだんだろ? 死んでも守りたかったものがあったのか?」
弥次「いや、精神的に不安定になってたんだろ。日本で言えば、ちょうどオウム事件のように好奇の目にさらされて、それがプレッシャーになってウツ状態になったんじゃないか?」
蛸八「でも今までの大統領だってみな不正をしてきたし、それが報道されてもきたじゃないか」
弥次「ノムヒョン自身がポピュリストだっただけに、メディアのほうも不正資金疑惑を面白おかしく報道してきたんじゃないの? インターネットがそれに拍車をかけたのかもしれんし」
蛸八「うーむ。ところで韓国はかなり衝撃を受けてるみたいだね」
弥次「今度の事件が現政権批判に向かいかねない」
蛸八「はやくも追悼式で市民と警察が小競り合いになったっていうじゃないか」
弥次「韓国民らしいね(笑)。韓国では司法の独立なんて誰も信じてやしない。韓国の大統領は王様と同じなんだ。大統領の指示次第で警察なんてどうにでもなる。実際ノムヒョンも執政時は司法に権力を行使してきた。だから今回の不正資金疑惑も李大統領の指示だと韓国民は見ているだろう」
蛸八「ノムヒョンを殺したのは李大統領だと」
弥次「検察が不正資金疑惑の捜査を打ち切ることにしたのも、国民からの批判を回避するためだろ」
蛸八「これで有耶無耶になるわけだ」
弥次「法より感情の国だからね。これが韓国社会の分裂を一層深めるか、それとも一時的なもので収まるか、ちょっと興味深いね」
蛸八「ノムヒョンは権力に殺された犠牲者として、“義士”に祭り上げられるかもしれんなぁ」
弥次「まあ、我々にとって韓国の義士などロクなものはいないがな」
蛸八「確かに。死んでこれほど同情を感じない人物も珍しい」
弥次「あれだけ日本の悪口を言ってきたんだから、因果応報ってヤツさね」
さてここで、盧武鉉の死を悼んで弥次が詠む。
「伝統の カネの乱れの 苦しさに 太極の旗は ほころびにけり」
こうきたものだから蛸八も続けて一首詠む。
「宙返り 何度もできる 岩の上 それにつけても カネの欲しさよ」

ノムヒョン・クリフを見上げる人たち。
今年は「横浜開港150年」に当たるということで、NHKが『プロジェクトJAPAN』というシリーズものの番組を放送しているが、この放送を巡るゴタゴタについてちょっとコメントしたい。
いささか旧聞に属する話なのだが、このシリーズの『NHKスペシャル 第1回 アジアの“一等国”』が4月5日に放送された。しかしながらその内容が偏っているとして、日本の保守派の反発を生んでいる(※1)。中にはNHKの番組に出演した台湾人に、「あなたがたが出演したNHKの番組を見てどう思うか」とわざわざインタービューしに行った人たちさえいるようだ(※2)。
(※1)自民議連が「偏向番組問題」でNHKに質問状(産経新聞2009.4.28)
(※2)
吾輩もNHKの『アジアの“一等国”』は見た。確かに、「偏向報道だ」とつけいれられる余地がある内容だったと吾輩も思う。だがこの放送はシリーズものなのだし、第1回放送分にしても、日本の植民地統治の一面を語っていることには違いないのだから、もう少し広い心で番組を見たらどうかと思う。これがもしシリーズ全編を通して「開国後の150年はひたすら負の歴史でした」と描いてしまったなら、十分非難に値するだろう。しかし第1回の放送を見ただけでわざわざ台湾まで出向き、「あれはお前たちの本心か?」と問いただすかのような一部の日本人の行為は不快だ。これではかえって親日派の台湾人にまで日本に対する反発を生んでしまいかねない(口には出さないであろうが)。日本人の立場としては、台湾人がNHKの番組に不満であると自ら抗議するまで待つべきだったのだ。そそのかしに行くようなことはすべきでなかった。
こういうことをする一部日本の保守派の人たちは、もしアメリカ人が日本に乗り込んできて、「お前たちはマッカーサーが日本に何の貢献もしなかったと思っているのか?」と訊ねてきたらどういう気分がするか、考えたことはあるのだろうか。たとえ威圧的な態度でないにしてもいい気分はしないだろう。アメリカの日本統治に対する貢献は認めないが、日本の台湾統治に対する貢献は認めろというのはあまりにも身勝手な話だ。アメリカに憲法を押し付けられたことを不快に思っているのなら、同じ立場にあった台湾人の複雑な感情も思いやってしかるべきである。近頃の保守は狭量にすぎる。
それからフォーリン・アフェアーズに部分公開されている『日本の歴史認識と東アジアの和解を考える』という論文を読んで思ったのだが(※3)、歴史問題は独仏や日中韓だけでなく、今後アメリカとアラブ諸国でも起こるだろうということである。イラクやアフガンに戦争を仕掛け、その国の元首を捕まえ、裁判にかけて死刑にしたという事実をイラク人やアフガン人(アフガン人という呼称はあるのか?)は学ぶことになるのである。日本でさえ、いまだ東京裁判に対する反発はあるのであるから、他国によって統治され、近代化してもらったというコンプレックスはイラク人やアフガン人の心に深く刻まれるであろう。このようなコンプレックスとは無縁なアメリカ人には、自分たちの正義の行いがどれほど彼らの歴史を傷つけているか、気づいていないようにみえる。従って、このような問題こそ、日本人がアメリカ人に助言してやれることなのだ。保守派の人たちは、もっと心を大きくして、台湾人の気持ちを理解し、他国に統治された国民が持つ感情がどのようなものであるかをアメリカ人に伝えることだ。保守派はそこにこそ、“日本人としての普遍的正義”を見出すべきである。
(※3)吾輩は独仏の歴史問題と日中韓の歴史問題は根本的に異なると考えている。独仏の歴史問題はおおむね第二次大戦期に限定されるが、日中韓の歴史問題は東アジアの近代化過程全般、さらに前近代の自他認識に深く関わっている。東アジアにおいては、華夷秩序の序列が逆転したことが歴史問題の本質なのである。
いささか旧聞に属する話なのだが、このシリーズの『NHKスペシャル 第1回 アジアの“一等国”』が4月5日に放送された。しかしながらその内容が偏っているとして、日本の保守派の反発を生んでいる(※1)。中にはNHKの番組に出演した台湾人に、「あなたがたが出演したNHKの番組を見てどう思うか」とわざわざインタービューしに行った人たちさえいるようだ(※2)。
(※1)自民議連が「偏向番組問題」でNHKに質問状(産経新聞2009.4.28)
(※2)
吾輩もNHKの『アジアの“一等国”』は見た。確かに、「偏向報道だ」とつけいれられる余地がある内容だったと吾輩も思う。だがこの放送はシリーズものなのだし、第1回放送分にしても、日本の植民地統治の一面を語っていることには違いないのだから、もう少し広い心で番組を見たらどうかと思う。これがもしシリーズ全編を通して「開国後の150年はひたすら負の歴史でした」と描いてしまったなら、十分非難に値するだろう。しかし第1回の放送を見ただけでわざわざ台湾まで出向き、「あれはお前たちの本心か?」と問いただすかのような一部の日本人の行為は不快だ。これではかえって親日派の台湾人にまで日本に対する反発を生んでしまいかねない(口には出さないであろうが)。日本人の立場としては、台湾人がNHKの番組に不満であると自ら抗議するまで待つべきだったのだ。そそのかしに行くようなことはすべきでなかった。
こういうことをする一部日本の保守派の人たちは、もしアメリカ人が日本に乗り込んできて、「お前たちはマッカーサーが日本に何の貢献もしなかったと思っているのか?」と訊ねてきたらどういう気分がするか、考えたことはあるのだろうか。たとえ威圧的な態度でないにしてもいい気分はしないだろう。アメリカの日本統治に対する貢献は認めないが、日本の台湾統治に対する貢献は認めろというのはあまりにも身勝手な話だ。アメリカに憲法を押し付けられたことを不快に思っているのなら、同じ立場にあった台湾人の複雑な感情も思いやってしかるべきである。近頃の保守は狭量にすぎる。
それからフォーリン・アフェアーズに部分公開されている『日本の歴史認識と東アジアの和解を考える』という論文を読んで思ったのだが(※3)、歴史問題は独仏や日中韓だけでなく、今後アメリカとアラブ諸国でも起こるだろうということである。イラクやアフガンに戦争を仕掛け、その国の元首を捕まえ、裁判にかけて死刑にしたという事実をイラク人やアフガン人(アフガン人という呼称はあるのか?)は学ぶことになるのである。日本でさえ、いまだ東京裁判に対する反発はあるのであるから、他国によって統治され、近代化してもらったというコンプレックスはイラク人やアフガン人の心に深く刻まれるであろう。このようなコンプレックスとは無縁なアメリカ人には、自分たちの正義の行いがどれほど彼らの歴史を傷つけているか、気づいていないようにみえる。従って、このような問題こそ、日本人がアメリカ人に助言してやれることなのだ。保守派の人たちは、もっと心を大きくして、台湾人の気持ちを理解し、他国に統治された国民が持つ感情がどのようなものであるかをアメリカ人に伝えることだ。保守派はそこにこそ、“日本人としての普遍的正義”を見出すべきである。
(※3)吾輩は独仏の歴史問題と日中韓の歴史問題は根本的に異なると考えている。独仏の歴史問題はおおむね第二次大戦期に限定されるが、日中韓の歴史問題は東アジアの近代化過程全般、さらに前近代の自他認識に深く関わっている。東アジアにおいては、華夷秩序の序列が逆転したことが歴史問題の本質なのである。
GWで頭の中がすっかり自転車モードになってしまい、いまだ通常モードに戻れない。なので、またまたしつこく自転車関連のテーマで投稿するでゴイス。で、今回は、90年代にみられた中高年登山ブームと現在の中高年自転車ブームを比較してみることにしたでゴイス。
十数年前、中高年の間で登山ブームがあった(今やブームは定着したらしい)。火をつけたのは、NHK教育テレビで放映された「趣味百科 中高年のための登山学」(出演:岩崎元郎、みなみらんぼう)といわれている。調べてみると放送されたのは95年で、人気があったため96年にも再放送されたようだ。確かこれに先立って、BSでは「日本百名山」が放映されていたように思う。一方、自転車の方はというと、これもやはりNHK教育テレビの「趣味悠々 中高年のための楽しいサイクリング生活入門」が2006年に放映されている。この頃から自転車関連本の出版が増えているようだ(ちなみに忌野清志郎さんが自転車雑誌に頻繁に登場するようになるのが2001年以降である)。

2つのブームの始まりには、ちょうど一回りほどの時間的開きがある(奇しくも共に金融危機の2〜3年前にブームが始まっている)わけだが、社会的背景をみれば、90年代中頃は、ケータイ、デジカメ、インターネットが普及し始める手前頃であった。これに対して、06年頃は、ホームページやブログなどがすっかり定着した時期だ。これらは「仲間を増やす」「モチベーションを維持する」「自己表現する」などのツールとして、自転車ブームを後押ししやすい環境を作ったといえよう。
さて、登山ブームと自転車ブームに共通していることは、どちらも旅的な要素を持ったアウトドア志向のスポーツという点である。それからもうひとつの共通点は、その楽しむスタイルだ。登山や自転車そのものを楽しむこともさりながら、山行したあとに温泉を楽しんだり、あるいは輪行先でうまいものを食ったり、道中の景色を写真に収めたりというふうに、(登山+α)、(自転車+α)の形で楽しむスタイルが共通しているのである。中高年ともなると、若者のように登山や自転車そのものに夢を賭けることができなくなるので、必然的にこうなってしまうのであろう。
異なる点は、動機である。今自転車に向かう人たちの主な動機はメタボ対策といわれている。しかし90年代に登山を始めた人たちの中でメタボ対策のために山を始めたという人は少ないであろう。彼らが山に向かった理由は当時からいろいろ推測されていたのたが、精神的な豊かさ、充実した生活を求めたからではないかと吾輩は思う。90年代に先立つ80年代は、「物質的には豊かになったが、精神的には満たされていない」といわれた時代だった。そういう思いを抱いていた人が山(自然)に向かったんだと思う。
そういう意味で、90年代に山に向かった中年たちには“自然”に対するオプティミズムがあった(※)。“自然”は、窮屈な人間社会に対するアンチテーゼだったのである。それに対して今の中年は“自然”に対してそのようなオプティミズムを抱いてはいない。彼らにとっては“自然”さえも、人為的に管理し保護されなければならない対象なのである。夢がないといえば夢がない。だが考えてみれば、今の中年は若い頃、「三無主義だ、五無主義だ、しらけ世代だ」と言われてきた。今自転車を始めたのもメタボ対策という消極的理由からである。こういう世代だから、登山のようなシンドくて泥臭いイメージのスポーツよりも、“手軽”で“カッコイイ”自転車が好まれるのかもしれない。
(※)結果的に登山ブームは山小屋や登山道のオーバーユースによる自然破壊、中高年登山者の遭難事故の増大など、いくつかの問題を引き起こした。

もっといえば、登山は、登山道を外れることが許されないスポーツだ。コースを外せば即遭難に繋がる。最悪の場合、それで人生が終わる。それだけに緊張感はある。これに対して自転車は、気ままにコースを外して道草が食える。自由度がはるかに高い。登山を好むか、自転車を好むかは、人生を踏み外してはいけないものと考えるか、寄り道しながら生きていくことをよしとするか、それぞれの年代の社会通念を反映しているといってしまえば、考えすぎであろうか。
だが、動機に夢があろうとなかろうと、積極性があろうとなかろうと、人生真剣に考えようといい加減に考えようと、登山も自転車もひとたび始めてしまえば、それが縁で新しい人間関係が広がり、日常とは違った世界が構築される。それがなにより魅力なのだろう。登山界では3人寄れば山岳会ができると揶揄されるほど、気の合った仲間同士の山行が流行った。また夫婦で登山をする人も多い。自転車も、3人寄ればチームを組んで走ったり、夫婦で走ったりというスタイルが増えてくるであろう。
ま、そういうわけだから、アパレル業界には、中高年にも抵抗なく着ることができるレーシングジャージを是非とも開発していただきたいものだ。近所の手前、派手なレーシングジャージは恥ずかしいのである(あと、あのタイツもどうにかならんものかなぁ。恥ずかしすぎるんだけど)。落ち着いたデザインのものなら売れるよ、きっと。
◆本日のエクササイズ
自宅〜鳥の海〜県道39〜自宅:105.0km

仙台亘理自転車道(といってもクルマも走る)。左手は海岸。
十数年前、中高年の間で登山ブームがあった(今やブームは定着したらしい)。火をつけたのは、NHK教育テレビで放映された「趣味百科 中高年のための登山学」(出演:岩崎元郎、みなみらんぼう)といわれている。調べてみると放送されたのは95年で、人気があったため96年にも再放送されたようだ。確かこれに先立って、BSでは「日本百名山」が放映されていたように思う。一方、自転車の方はというと、これもやはりNHK教育テレビの「趣味悠々 中高年のための楽しいサイクリング生活入門」が2006年に放映されている。この頃から自転車関連本の出版が増えているようだ(ちなみに忌野清志郎さんが自転車雑誌に頻繁に登場するようになるのが2001年以降である)。

2つのブームの始まりには、ちょうど一回りほどの時間的開きがある(奇しくも共に金融危機の2〜3年前にブームが始まっている)わけだが、社会的背景をみれば、90年代中頃は、ケータイ、デジカメ、インターネットが普及し始める手前頃であった。これに対して、06年頃は、ホームページやブログなどがすっかり定着した時期だ。これらは「仲間を増やす」「モチベーションを維持する」「自己表現する」などのツールとして、自転車ブームを後押ししやすい環境を作ったといえよう。
さて、登山ブームと自転車ブームに共通していることは、どちらも旅的な要素を持ったアウトドア志向のスポーツという点である。それからもうひとつの共通点は、その楽しむスタイルだ。登山や自転車そのものを楽しむこともさりながら、山行したあとに温泉を楽しんだり、あるいは輪行先でうまいものを食ったり、道中の景色を写真に収めたりというふうに、(登山+α)、(自転車+α)の形で楽しむスタイルが共通しているのである。中高年ともなると、若者のように登山や自転車そのものに夢を賭けることができなくなるので、必然的にこうなってしまうのであろう。
異なる点は、動機である。今自転車に向かう人たちの主な動機はメタボ対策といわれている。しかし90年代に登山を始めた人たちの中でメタボ対策のために山を始めたという人は少ないであろう。彼らが山に向かった理由は当時からいろいろ推測されていたのたが、精神的な豊かさ、充実した生活を求めたからではないかと吾輩は思う。90年代に先立つ80年代は、「物質的には豊かになったが、精神的には満たされていない」といわれた時代だった。そういう思いを抱いていた人が山(自然)に向かったんだと思う。
そういう意味で、90年代に山に向かった中年たちには“自然”に対するオプティミズムがあった(※)。“自然”は、窮屈な人間社会に対するアンチテーゼだったのである。それに対して今の中年は“自然”に対してそのようなオプティミズムを抱いてはいない。彼らにとっては“自然”さえも、人為的に管理し保護されなければならない対象なのである。夢がないといえば夢がない。だが考えてみれば、今の中年は若い頃、「三無主義だ、五無主義だ、しらけ世代だ」と言われてきた。今自転車を始めたのもメタボ対策という消極的理由からである。こういう世代だから、登山のようなシンドくて泥臭いイメージのスポーツよりも、“手軽”で“カッコイイ”自転車が好まれるのかもしれない。
(※)結果的に登山ブームは山小屋や登山道のオーバーユースによる自然破壊、中高年登山者の遭難事故の増大など、いくつかの問題を引き起こした。

もっといえば、登山は、登山道を外れることが許されないスポーツだ。コースを外せば即遭難に繋がる。最悪の場合、それで人生が終わる。それだけに緊張感はある。これに対して自転車は、気ままにコースを外して道草が食える。自由度がはるかに高い。登山を好むか、自転車を好むかは、人生を踏み外してはいけないものと考えるか、寄り道しながら生きていくことをよしとするか、それぞれの年代の社会通念を反映しているといってしまえば、考えすぎであろうか。
だが、動機に夢があろうとなかろうと、積極性があろうとなかろうと、人生真剣に考えようといい加減に考えようと、登山も自転車もひとたび始めてしまえば、それが縁で新しい人間関係が広がり、日常とは違った世界が構築される。それがなにより魅力なのだろう。登山界では3人寄れば山岳会ができると揶揄されるほど、気の合った仲間同士の山行が流行った。また夫婦で登山をする人も多い。自転車も、3人寄ればチームを組んで走ったり、夫婦で走ったりというスタイルが増えてくるであろう。
ま、そういうわけだから、アパレル業界には、中高年にも抵抗なく着ることができるレーシングジャージを是非とも開発していただきたいものだ。近所の手前、派手なレーシングジャージは恥ずかしいのである(あと、あのタイツもどうにかならんものかなぁ。恥ずかしすぎるんだけど)。落ち着いたデザインのものなら売れるよ、きっと。
◆本日のエクササイズ
自宅〜鳥の海〜県道39〜自宅:105.0km

仙台亘理自転車道(といってもクルマも走る)。左手は海岸。
前回5月2日に中年サイクリストに関するエントリーを投稿したのだけれども、その翌朝、忌野清志郎さんが亡くなったというニュースを聞いて、愕然とした。以前、癌が転移したとのニュースを聞いたとき、「これはかなり厳しいな」と思っていたので、中年サイクリストのエントリーを書いているときも、「キヨシローさん、どうしたかなぁ」という思いが頭から離れなかった。
もっとも、吾輩は氏の音楽に興味があったわけではない。ただ、自転車乗りを趣味とする者として、彼の存在がトレーニングの励みになったというだけである。吾輩は彼のレコードを1枚も買ったことはないが、彼が「東京〜鹿児島」を自転車ツアーしたときの様子を特集した雑誌『サイクルスポーツ』は買ったし、「奥の細道ツアー」の様子を撮影したテレビ番組も見た。「彼が走っている」と思うと、「よし、吾輩も走ろう」という気になるのである。その程度のことに過ぎなかったのに、いま若干の喪失感を感じている。
氏の音楽については、吾輩はなんら意見を述べるような素養はないけれども、清志郎さんが音楽活動をし始めた頃は、「日本語でロックを歌う」ことが、今ほど自然なことではなかったようだ。もう随分前のことになるけれども、日本でラップが流行ったことがあった。そのとき初めて日本語のラップを聴いて吾輩は思った、「もうやめてくれ、聴いてるこちらが恥ずかしい」と。このような気恥ずかしさというか、違和感、マガイモノ意識、劣等感が、当時の和製ロックにもあったのではなかろうか。日本語とロックは水と油のようなものだ。イギリス人ならロックで自然に表現できることも、日本人なら意識して表現しなければならない。うっかり気を抜くと、ロック調の演歌になってしまう。それほどまでに強い伝統の拘束力を振り切るには、どう歌えばいいのか。その一つの回答例が、「ベイベー」や「愛し合ってるか〜い」のような、跳んでるというか、ブレイクスルーしたスタイルに結晶したのではないかと思う。今や「君が代」でさえロックで歌えるくらい、日本のロックは自信を得たのである。
当たり前となってしまった時代から、当たり前でなかった時代を想像するのは難しい。近代小説が当たり前となった今日からみれば、「近代小説を日本語でどのように書くか」という問題と格闘した二葉亭四迷や森鴎外の苦労を想像するのは困難である。しかし、そうした苦労や試行錯誤を明治以来の日本人は繰り返してきた。音楽にせよ、小説にせよ、異文化の輸入は、樹木を移植するのとはワケが違うのである。少なくとも韓国人が言うように、「文化的に劣っていた日本が、たまたま明治に開国政策を採って西洋の技術を輸入したので、韓国より先に近代化した」などという単純な話ではない。そこには韓国人が想像もしえないほどの先人の苦闘があったのである。西洋の文物が日本という濾過装置によって濾過された形でしか入ってこない韓国の国民には、その苦労がわからないのだろうな。
というわけで、忌野清志郎さんに合掌。
明日は「奥の細道ツアー」で清志郎さんが走った松島を走りに行きます。
もっとも、吾輩は氏の音楽に興味があったわけではない。ただ、自転車乗りを趣味とする者として、彼の存在がトレーニングの励みになったというだけである。吾輩は彼のレコードを1枚も買ったことはないが、彼が「東京〜鹿児島」を自転車ツアーしたときの様子を特集した雑誌『サイクルスポーツ』は買ったし、「奥の細道ツアー」の様子を撮影したテレビ番組も見た。「彼が走っている」と思うと、「よし、吾輩も走ろう」という気になるのである。その程度のことに過ぎなかったのに、いま若干の喪失感を感じている。
氏の音楽については、吾輩はなんら意見を述べるような素養はないけれども、清志郎さんが音楽活動をし始めた頃は、「日本語でロックを歌う」ことが、今ほど自然なことではなかったようだ。もう随分前のことになるけれども、日本でラップが流行ったことがあった。そのとき初めて日本語のラップを聴いて吾輩は思った、「もうやめてくれ、聴いてるこちらが恥ずかしい」と。このような気恥ずかしさというか、違和感、マガイモノ意識、劣等感が、当時の和製ロックにもあったのではなかろうか。日本語とロックは水と油のようなものだ。イギリス人ならロックで自然に表現できることも、日本人なら意識して表現しなければならない。うっかり気を抜くと、ロック調の演歌になってしまう。それほどまでに強い伝統の拘束力を振り切るには、どう歌えばいいのか。その一つの回答例が、「ベイベー」や「愛し合ってるか〜い」のような、跳んでるというか、ブレイクスルーしたスタイルに結晶したのではないかと思う。今や「君が代」でさえロックで歌えるくらい、日本のロックは自信を得たのである。
当たり前となってしまった時代から、当たり前でなかった時代を想像するのは難しい。近代小説が当たり前となった今日からみれば、「近代小説を日本語でどのように書くか」という問題と格闘した二葉亭四迷や森鴎外の苦労を想像するのは困難である。しかし、そうした苦労や試行錯誤を明治以来の日本人は繰り返してきた。音楽にせよ、小説にせよ、異文化の輸入は、樹木を移植するのとはワケが違うのである。少なくとも韓国人が言うように、「文化的に劣っていた日本が、たまたま明治に開国政策を採って西洋の技術を輸入したので、韓国より先に近代化した」などという単純な話ではない。そこには韓国人が想像もしえないほどの先人の苦闘があったのである。西洋の文物が日本という濾過装置によって濾過された形でしか入ってこない韓国の国民には、その苦労がわからないのだろうな。
というわけで、忌野清志郎さんに合掌。
明日は「奥の細道ツアー」で清志郎さんが走った松島を走りに行きます。